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個人データと社会との関わり方

個人のデータが蓄積されていく社会。その形を考えることは、自分と社会との関わり方を考えることにつながりそうです。

記録が分断された状態

医療機関が用いる、電子カルテ。行政や民間企業などが推進しようと試みる、PHR(Personal Health Record)。スポーツ領域で構築が検討されつつある、運動履歴。教育界で研究され実装が試みられ始めた、eポートフォリオ。これらは、すべて、個人にまつわる記録。しかも、すべてが長期的な履歴を残すことを目指し、本人や周囲が活用することを目指して検討されています。

これらが検討されている理由として、こうした時系列データが、組織ごとに分断されてしまっているという現状があります。電子カルテは病院ごとに分断され、PHRは運営会社ごとに分断され、運動履歴は所属チームごとに分断され、学習履歴は学校ごとに分断されています。分断される理由はいくつかあります。そのシステムを納入しているメーカーが、独自規格で構成し囲い込みを図るため、システムの入れ替えはもちろん連携がしづらくなります。また、運営するサービス母体自体もユーザー囲い込みの観点と、個人情報保護の観点から流出を極度に避けるという傾向も見られます。それは、ユーザー側の意識としても強く根を張っています。

データ活用の意義

一方で、こうしたデータを自在に活用する意義もまた見出されてきています。

海外のチームに所属し活躍するスポーツ選手が増えてくる中、移籍の際に自分の履歴をどのように客観的に示すことができるのか、というのはキャリア形成においても重要となってきます。これはプロスポーツ選手だけではなく、学生時代の運動の履歴、スポーツ経験の記録などがつながることで、見えてくる世界が全く変わってきます。

学びの記録も同じことではないでしょうか。様々な対象に興味を持ち、学びをつづけていく時間軸の中の、ただの点としての試験結果を残すのではなく、こうした学びの連なりそのものを記録していこうとする研究が進んでいます。それらを幼少期から小学校、中学校、高校、大学、大学院、社会人になってからの学びなど様々な時期と場所をつらぬいて、個人の履歴として残していくこと。

健康についても同じです。病気になってからのカルテデータですら分断されていますが、平常時の身体データをベースとするPHRとの連携なども含めて、個人としてのデータを統合していくことで、見える世界があります。友人の医師が、かつて言っていました。医療は病気の谷底に落ちてきた人に介入する崖下で待つサービスだが、本来の健康支援は崖から落ちないように支えることだ、と。いわゆる未病対策は、崖っぷちに寄らないようにするくらいのものなのかもしれません。そして、それは医療データとPHRとが連携することで実現できる世界とも考えられます。

さらに、上記のような健康、運動、学びのデータも、それぞれがバラバラではなく、相補的に組み合わさることで見えてくるものがたくさんあります。

オウンドメディアと分散型メディア

しかし、こうした多領域のデータを、一括でとりまとめるということ自体が、とても難しいと思えます。むしろ、あちらこちらに偏在するデータをいかに横断的に結びつけることができるのか。4〜5年前に、オウンドメディアと分散型メディアのどちらが効果的か、という議論がありました。オウンドメディアは、情報を自社のウェブサイトなどに集約していくモデル。分散型メディアとは、Facebook、Youtube、Instagramなどの各種メディア上でそれぞれに特化した情報を展開するもので、自社サイトに集約しない、というモデルです。この個人情報関連のデータ連携については、分散型メディアモデルで、いかに自分のデータを結びつけられるか、という方向性で考えることの方が現実的なのではないかと思うのです。

一括にまとめるのではなく、データが偏在する状態で、それらを自分で結びつける、という形。これって、ポートフォリオワークと同じかもしれません。自分の社会との接点を、どこかひとつにまとめるのではなく、いくつかの接点を設けることで、社会の中に自分を偏在させていく。それによって、結果的にロバストネスを高めていく。仕事、交友関係、関わるコミュニティなどは言うに及ばず、もしかすると家族の在り方さえもが、こうした形に変わっていくのかもしれません。パーソナルデータが、自分の人生の記録とすると、それらがどのように蓄積されていくのかを考えることは、自分が社会どどのような接点を持つのかを考えることにつながるのだと、改めて思いました。

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