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ラグジュアリーを必要とする人たちの変遷ー高級食材の意味が転換すること。

COMEMOのラグジュアリー領域担当(!)としては、見逃せない記事をみつけてしまいました。地球温暖化抑制のために米国で「脱・ウシ」の動きが進んでいるとの話です。ヴィーガンはよく話題になりますが、その動向に「ラグジュアリー」という言葉が添えてあります。今回は、ここに注目してみます。 

ニューヨーク市を代表する高級レストラン「イレブン・マディソン・パーク」は、6月上旬に営業を再開するにあたり、野菜を中心としたメニューに全面的に切り替えると発表した。新型コロナウイルス禍で一時閉店を余儀なくされるまで、ウォール街のパワープレーヤーが6カ月の予約待ちで肉や魚介などの高級食材で舌鼓を打ってきた店だ。百八十度の方向転換といっていい。

オーナーシェフのダニエル・ハム氏は、米メディアに「コロナ禍の前と同じではいけない。ラグジュアリーの定義は変わるべきだ」と語った。

高級レストランと称される場で軸となる食材を変えていくにあたり、それを「ラグジュアリーの定義は変わるべきだ」という表現をあえて使っているのです。

何度もここで書いていますが、ラグジュアリーの定義は今、変わりつつあります。ただ、特徴は一つの定義に収斂するのではなく、多数の定義がさまざまに出てきているので、逆に「新しいラグジュアリーとはこれだ!」と自信満々に語る人がいたら、その言葉は疑った方が良いです。この記事でいえば、サステナブルな食事の実現がラグジュアリーであると語っていれば、「サステナブルな食事とは何を指しているのか?」くらいは考えるべきでしょう。グリーンウォッシュ(環境に良いことをやっているフリ)ではないか?という批判もいつでも発動できるようにしておかないといけません。

ところで、5月12日、「新しいラグジュアリーの鼓動に耳をあてる。」というタイトルのオンライン講座を企画・実施しました。そこで服飾史研究家の中野香織さんがヨーロッパを中心としたラグジュアリーの歴史を話してくれたので、ぼく自身のコメントも追加しながら、彼女の話の要点を以下に書いておきます。レストランのオーナーシェフの「ラグジュアリーの定義は変わるべき」の発言の意味がよりよく理解できると思います。

ラグジュアリーの変遷史は「ラグジュアリーを必要とする人」の変遷史

まず贅沢とも訳されることの多いラグジュアリー(luxury)という言葉の源を探ってみます。ラテン語のluxue を源とし、「耽溺、色欲」「繫茂、豊富」「光、光輝くもの」と大きく3つの傾向に分類できます。ラグジュアリーという表現のなかで、これらのどれかがケースによって前面に出てくる、あるいは水面上に浮上してくる。これがラグジュアリーを巡る歴史であるというわけです。

中世までは王侯貴族の威信のために希少性のある、必然的に高価なものがラグジュアリーであると見なされました。例えば装身具の範疇で想像していただければ、天然真珠などが思い浮かびます。それが近世になると、奢侈や豪華と表現され、中野さんは、2つの現象をとりあげます。

一つは宗教施設です。教会の特に内装の表現に「永続性」「創造性」「魅惑」という言葉が重なります。中世までの教会の内部が多く「質素」と形容するに相応しい空間であるのと対照的です。もう一つが私的領域での「愛妾経済」と言われるものです。「誘惑的」「名声」「ファッショナブル」という言葉に代表されます。例えば、18世紀のルイ15世に公妾として政治や学芸の分野でも大きな影響を与えたポンパドゥール夫人のインテリア(現在のエリゼ宮にある部屋)など、最たるものです(ちなみに、住居における私的空間は、この時代に生まれました。それまでどこかの部屋に行くには、どこかの部屋を通るという建築構造になっています)。

この時代、妾という存在がある社会層にはほぼシステムに近いカタチであり、妾の満足と妾をもつ男性の名声を軸に、そこで動くモノとお金があった。それがラグジュアリー領域を形成していました。

19世紀、産業革命により資本家が存在感を放つようになります。いわゆる新興ブルジョアの台頭です。たくさんのお金をもつようになる。でも、これまで社会的ステイタスを持っていた貴族のようには、なかなか存在を認知してもらえない。その欲求を満たすためにラグジュアリービジネスが成立するに至ります。つまり、ラグジュアリーを「必要」とする人、そのアイテムが時代によって変わってきたのです。

19世紀以降のラグジュアリービジネスにも変化は常にある

現在、ラグジュアリーと皆さんが一般にイメージするブランドは、この19世紀に多く誕生しています。英国のダンヒルやバーバリー、フランスならエルメス、ルイヴィトン、オートクチュール組合なども、この時代です。

ブランドは限られた人たちだけを顧客とする排他的な姿勢をとり、販売網も自社店舗など選択されたルートを使います。こうした方策によってブランドの地位が高く維持できます。このビジネスに大きな変化が出てくるのが、1970年代、日本の団体海外旅行客がパリのシャンゼリゼ通りにあるルイヴィトン本店に列をなしていた頃です。

そして1970年代後半、ルイヴィトンは日本に直営店を出します。第二次世界大戦後はじめてのヨーロッパ外の直営店です。ヨーロッパ文化に憧れのあった当時の日本の人が、高度成長期にもちえた経済力で19世紀のエリート性の高いモノを買うようになったのです。19世紀のヨーロッパの資本家が貴族のイメージを纏おうとした動機そのものを、20世紀後半、日本の中流意識に芽生えた人たちが若干なぞろうとしたわけです。

ラグジュアリー市場がより顕著に認識されるようになったのは、1990年代半ばで、その背景には日本の女性を中心とした購買層がフランスやイタリアのブランドに注目したことと、米国の金融経済の活性化で増えた新興富裕層がヨーロッパの高級ブランドを「必要」としたのです。

こうした市場動向を踏まえ、フランスのベルナール・アルノーは1980年代にLVMHという酒、アクセサリー、ファッションなどさまざまなブランドを束ねたコングロマリットへの道を進み、フランソワ・アンリ・ピノーはケリングというファッションに強いグループを率い、スイスのリシュモンは時計に強いグループを作ってきました。

そして大資本の投下によって、ラグジュアリーの大衆化路線が今世紀になってはっきりし、その結果、市場は大きく拡大します。2010年以降の主役は中国人です。

2015年周辺から差別化戦略自体が下品に見えるとのトレンドが顕著

このあたりから、ぼくが話した内容も多く含みます。これまで述べてきたように、一部の人のためのモノの大衆化という一見矛盾する動向は、言うまでもないですが、多様な歪を生んでいきます。その根底にあるのは、排他的であること自体が社会的な態度として歓迎されないものになってきたのです。エクスクルーシブからインクルーシブへの転換です。

ただ、そうは言っても、人は他人と違うことを場合に応じてアピールしたい欲求を完全に抑えることはできません。そこは品性が見え隠れして、下手すると下品になります。ラグジュアリーが往々にして品がないと非難を浴びやすいのは、この点です。それはラグジュアリーとされるモノを持つ当人が、自分を大きく見せようと無理をするからです。

これも地域ごとの経済や文化の成熟性によっても、その表現は異なります。およそ先進国といわれるところは、インクルーシブ度合いが高く、新興国の方が経済格差が極端でエクスクルーシブ度が高いとみられるとは言われます。だが、かといって、そこで旧来型のラグジュアリーが後者で圧倒的に受けているとは言えません。中国市場がラグジュアリー世界市場の3割以上を占める理由を、エクスクルーシブな文化の国であるからと断言すれば、いろいろと反論があるだろうと思います。

だから、一筋縄ではいかない話であると判断を留保すべき問いなのだと感じています。むしろ、前述したラグジュアリーの定義が多様に出ている背景の一つとすべきではないでしょうか。それでも、新たな方向にインクルーシブがあり、またニューヨーク市の高級レストラン「イレブン・マディソン・パーク」のオーナーシェフのダニエル・ハム氏が語るように、環境を意識していることがその先の一つにあるのは確かです。

上述したように、ラグジュアリーの歴史には、ある価値を伝えるためという目論見がついてまわります。近世における教会の内装も、19世紀の新興ブルジュワジーもその例です。1990年代の米国の新興金持ちもそうです。だから、2021年の現在、イケイケのレストランでイケイケの人たちが「脱・ウシ」を先端的な価値の表現として受け取る、というのはこの面の表現として解釈してよいでしょう。

インテリ人種からはやや表層的と見られる人たちが世の中の先端的価値の実現に力を貸してきたのは、紛れもない事実なのです。スノッブであるとか、グリーンウォッシュであるとか言われながらも、その声を気にしない(あるいは、楽しむ)人たちが逆説的に世の中に貢献しているわけです。したがって、このコンテクストで「ラグジュアリーの定義は変わるべき」というコメントはとても意味深です。定義そのものでなく、「ラグジュアリーの定義」という表現を持ち出すこと自体がメッセージの方向を示しているのです。文化先導者の社会とのある種の駆け引きとも言えるでしょう。

最後に。講座を運営しているぼくたちのチームのロゴ(トップ画像)、Letters from nowhereのデザインをしてくれたメンバーの前澤知美さんの言葉を紹介しておきます。

(19世紀の英国でアーツアンドクラフツ運動をおこした)ウィリアム・モリスの「News from nowhere」へのオマージュです。新しいラグジュアリーの流れを、見たこともない景色・場所からの新しい風にたとえて、この名前になりました。それから、消印をモチーフにしたロゴにしたいなと考えて、このデザインに至りました。ロマンティックな美意識をスタディし、それを未来的な配色と組み合わせる作業はとても楽しかったです。





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