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オリンピック開会式に葬送的過去を感じパラリンピック閉会式に祝祭的未来を感じることについて- 2021年8月の分水嶺-
実は良かったよ、パラリンピック
「パラリンピックの開会式、意外と面白いよ」見てみて、と友人に言われて見た人も多いと思う。
デコトラから「キル・ビル」のテーマソング「BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY」とともに布袋寅泰見参。
多くの人が、オリンピックの開会式閉会式は残念だったけど、パラリンピックの開会式閉会式は普通に感動した、という。
オリンピックに比べて関心が薄いから炎上しなかった?
様々な政治家やスポンサーの天の声なく、プロデューサーがコンセプトを遺憾なく演出すると感動的なショーは十分可能、色んな理由と見方があると思う。
ただ、僕自身は、オリンピック大会とパラリンピック大会が、2021年に東京で同時開催されたことで明らかになった時代の分水嶺のようなものがあるのではないかと思う。
2016リオでのパラリンピック大会は、個人的にもそれほどの関心を持っていなかった。オリンピックの後に、障害者の人のための特別ルールのオリンピックをやっている、競技も意外と面白いらしいという認識だった。その認識の人も多かったと思う。
ここ5年間で、世界の何かが変わったのだ。
オリンピックとパラリンピック
オリンピック
1894年のIOC設立時の会議で「より速く、より高く、より強く」をオリンピックのモットーにするよう提案し、採用されました。「より高いパフォーマンスを通して、人間の完成に向けて永久に励む(努力する)こと」を意味するこの言葉は、単に競技力の向上だけではなく、競技力を高めていく中で、人間としても日々向上していくことを目指す考え方なのです。(JOC ホームページ)
より優れた存在を目指すというオリンピックの精神は素晴らしい。
個人と国家(企業)が競いながらより人類がより優れた存在を目指す、
そのコンセプトそのものが時代にそぐわなくなりつつあるように感じる。
バッハ会長の演説を多くの人が長いと感じたのも、理想を語る言葉が空疎に聞こえるからだ。
「連帯(Solidarity)」という言葉を演説で何度も使って訴えかけていても
連帯の意思決定はIOCの商業オリンピックの価値観で行われ、そこには開催地の国民もアスリートも存在しない。開催地の国民に多額の税負担を課す。平和の使者として広島長崎を訪問し、県と市に要人警備経費を負担させる。たかだか400万円弱の経費だが、「行ってやるのだから」その経費はできるだけ開催地に負担させるというIOCと組織委員会の姿勢の象徴だ。
緊急事態宣言下の無観客開催への変更などで運営が混乱しているのは理解できるが、大量の食品廃棄等、SDGsの理念に程遠い残念な出来事が、最後まで散見された。
パラリンピック
パラリンピックは、オリンピック開催年に、原則同じ都市・同じ会場で行われるが、実は主催者も理念も異なる。
主催者はIPCであり、理念は、「多様性を認め、誰もが能力を発揮できる公正な機会を与えられる共生社会の実現」だ。
優れた個人が国家のためにメダルを競う事よりも、多様性を包摂する共生社会の実現(Diversity & Inclusion)という理念がまずある。
パーソンズ会長のスピーチは言葉に力が籠もり迫力があった。日本の器の欠けやひび割れを漆などでつなぎ合わせて直す日本の伝統技法「金継ぎ」の文化にさり気なく触れ、障害者を一律の社会的弱者としてみるのではなく、一人一人が多様で独創的で美しい存在として見てほしいという主張が見られた。
パラリンピックは(プロアスリートも存在するが)アマチュアリズム中心で商業主義からは遠い。他大会等のスケジュールのために閉会式を待たずに帰国するプロアスリートが多いオリンピックと違い、パラリンピックの選手は大会の開催そのものに感謝し開会式閉会式のイベントも最後まで心から楽しんでいるように映った。
オリンピックでの一連の廃棄報道の一方で、パラリンピックでは、オリンピックの開会式で利用された衣装や資材が再利用され「循環社会」を目指す取り組みがアピールされた。
そして何故か開会式での「Imagine」には、日本の歌でないことへの違和感と残念さを感じたのに「What a wonderful world 」には素直に感動した。
オリンピックが国家を背負った競争と優越(Competition and Supremacy)からの平和社会の実現であるのに対して、パラリンピックは世界共通の人類の多様性と包摂(Diversity and Inclusion)そして共生社会の実現をテーマにしているからだと気づく。
オリンピックには私達に知らず知らずのうちに、「国家」を意識させる何かがある。
パラリンピックには逆に私達に知らず知らずのうちに、その枠を取り払う何かがある。
パラリンピックのイタリア代表選手が、人生生涯の夢として、IOCとIPCを統合して会長に就任し完全にオリンピックとパラリンピックを統合した大会として開催したいと語っていた。その時に、健常者も障害者もない共生社会が完成するのだろう。
改めて障害者とは、どういう人達か
パラリンピックに批判的な一部の人には、「一握りの才能ある障害者のための舞台」「障害を克服し、がんばる人たちを応援すべきという押し付けがましさを感じる」という意見もあるという。
この文章を朝日新聞に寄せた、ノンフィクションライターの渡辺一史氏は重度身体障害者とボランティアの奮闘を描いた『こんな夜更けにバナナかよ』を書いた人であり、今でも相模原障害者殺傷事件の取材等、障害者のルポを継続的に行っている。
パラリンピック出場者は「彼らはアスリートなのか、障害者なのか」
パラリンピックは「スポーツなのか、福祉なのかがあいまい」だという。
一部のパラアスリートが頑張る姿は、能力主義、自己責任論を助長しかねない、と警告を発する。
私個人は、この「障害者と健常者という分け方」、「福祉と支援の対象、社会的弱者としての障害者の世界」というという見方は一面的に過ぎるように感じる。その見方だけだと、身体能力が高くプロとして自立している人は、その定義において障害者ではなくなり「その存在が「能力主義」を生み、通常の「努力をしない」障害者の排除を招く」として批判の対象になる。果たしてそうだろうか。
何故、このように二項対立で分け決めつけようとするのか。人間は、もっと複雑で多様な一面を持つ生き物だ。「障害者でありアスリートでもある人達」が「当初福祉として始まった今はスポーツの世界大会で活躍する」それで良いと思う。
閉会式で「WeThe15」という2分弱の短いビデオが流れた。
(閉会式で見た人も一瞬だったと思うので改めて見てほしい)
健常者と思しき人からの
「あなたは私に幸せというものを思い出させてくれます」
「落ち込まずに頑張っている姿がとても素敵です」
「私達の背中を押してくれます」
「あなたは私のスーパーヒーローです」
等の障害者に対するよくあるセリフが流れた後、
決して鉄人の克服者でも聖人でもない、恋に育児に普通の日常を楽しく送り自分達の障害そのものすらも笑いに変える姿が続き、最後に「特別扱い」をしないで「当たり前の人間としてみて欲しい」という共生社会のメッセージが流れる。
そして私達は世界人口の15%、10億人もいるのだ、 #WeThe15 、と。
10億人といえば、たった150年ほど前、1850年頃の産業革命が起きた頃の世界の全人口だ。
車椅子ラグビー、閉会式ダンスパフォーマンスから身体で理解する多様性と包摂
車いすラグビーの女性選手である倉橋香衣さんが語っていたが、生涯障害を負うことになる大怪我をし病院で車椅子生活を送っている時、閉まりそうになるエレベーターに毎回かけ込もうとして怒られていたという。
「車いすに乗っていると、いけないことだとわかっていても、壁とかドアにガーンとぶつけてみたくなる。車いすラグビーを見たときにこれだ!と思いました」(倉橋香衣、NHK「逆転人生」)
健常者からの一方的な障害者の狭いイメージに収まらない「当たり前の人間としてみて欲しい」という誰しもが持つ感情だ。健常者も何かのステレオタイプのイメージで決めつけられると不愉快だろう。
車椅子ラグビーは、選手に障害の程度に応じて点数が与えられ4人の持ち点の合計が8点を超えてはならないルールがあり、ハイポインター(3.5点)だけではチームを構成できない。障害の重いローポインター(0.5点)がいかに良い守備をするかが重要だ。更に女性は0.5点追加が許される。倉橋香衣選手は日本代表でその唯一の女子選手だ。
ボールにほとんど触ることのない華奢な倉橋選手が「デンジャラス・タンク(危険な重戦車)」と恐れられるオーストラリアの巨体のライリー・バット選手を、巧みなチェアワークで先回りし動きを止めるシーンは痛快だった。
(毎日新聞、徳野仁子撮影)
パラリンピック競技は、このように身体能力の差も、性差も多様性の1つと認めて、誰もが能力を発揮できるようにルールを公正に決めて競技を
楽しめるように工夫されている。
抽象的な「多様性」という言葉が、様々な選手のプレイを観ているだけでガンガン入ってくる。身体能力も性別も異なる選手がチームで一丸となって見せるパフォーマンスによって「包摂」というものが何か、身体性を持って理解できる。
閉会式のダンスパフォーマンスも同じだ。(これもまだ観てない人は是非見てほしい)
オリパラ期間中は司会進行としてスポーツ解説者のコメントを冷静に引き出していた嵐の櫻井君が本職プロダンサーとして、ブレイクダンス、タップダンス、ワンカメショー、画像シャッター演出、立ち位置1つ覚える事の大変さを解説し純粋に感動して褒めていた。
「みんな違ってみんな良い」なんてものではなく「みんな違ってみんなスゲー」だったのだ。
まさに、「Harmonious Cacophony(調和した不協和音)」という閉会式コンセプト、「自分のままで良く(多様でバラバラ不協和)、でも一員として仲間と(調和と包摂)」という世界観はこういうことかもしれない、という事が音楽とパフォーマンスで身体性を持って入ってくる。
2021年8月が、日本にとって分水嶺だったのではないか
2021年8月のオリンピックとパラリンピック東京大会が同時開催されたこの1ヶ月強が日本にとって分水嶺だったのではないか、という直感は、ここ何回かオリンピックの開会式、閉会式で私自身が繰り返し書いてきた事だ。
①開会式が露呈した現実から目を背ける訳にはいかない。
オリンピックの開会式は、奇しくも、高度成長日本モデルの崩壊と、人権、多様性、弱者への配慮、様々な国際感覚の欠如といったオールドジャパンの存在とその崩壊を印象づけた。
②オリンピックの競技期間中は、個々の選手の活躍、特に10代や女性、新競技選手の活躍に注目し、日本の終わりの始まりでなく、新しい日本の始まりの始まりの可能性を見出した。
③そして、パラリンピック。
パラリンピック選手には皆、特別な人生の出来事がある。それが生まれた時の人もいれば、徐々に症状が進行した(している)人、突然のある日の怪我や事故の人もいる。
東京オリンピックの開会式が何かのこれまでの限界と崩壊を象徴したとするなら、
東京パラリンピックの閉会式は再生と回復(レジリエンス)の物語だ。
世界も日本も、まだまだまだ傷ついている。正常な生活にはまだ遠い。
今回のオリンピックパラリンピックは世界の人々がアスリートのレジリエンスの力に自らを重ねる事ができた歴史的な大会かもしれない。(橋本聖子組織委員会会長のいう様に「評価は歴史が決める」)
奇しくも、安倍長期政権を引き継いだ菅政権が終わりを告げ、復興を旗印に掲げたオリンピック招致からの8年、安倍政権誕生から約9年が、その開催に尽力した総理の任期と共に終わる。
私が、7/23のオリンピック開会式に葬送的過去を感じ、逆に昨日の9/5のパラリンピック閉会式に祝祭的未来を感じ、ここが日本の分水嶺だと感じるのは、このような理由による。