LGBT+論争にみる「自由」の意味

杉田水脈氏の寄稿文問題をめぐり、「新潮45」の休刊が発表された。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180925-00010003-huffpost-soci

ここでは寄稿文自体を論じるつもりはないが、ソーシャルメディア等を通じて様々な意見をみる機会があった。筆者個人としては公私ともにLGBT+(日経ではLGBTと表現しているが、私はクィアやアライ等を広くインクルージョンすべきという立場から、+をつけることにしている)やマイノリティを支援してきていることから、同性婚や選択的夫婦別姓を認めるべきという立場を継続している。しかしながら、これらに批判的な意見についても、その存在は否定しない(もちろん同意はできない)。

同性婚に関する世界の動きを見ると、先進国を中心に合法化の流れが加速している。欧米だけでなく伝統的に個々の権利よりコミュニティでの同意を重視する文化のあるアジア諸国においても、台湾での合法化などその動きは活発化している。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26588370W8A200C1EAC000/?n_cid=SPTMG002

重要なのは社会においてどう受容されるかということであり、そのためには賛成・反対を含めた幅広い前向きな議論をもって折り合いをつけていくというプロセスが不可欠である。「善か悪か」「好きか嫌いか」という二元論に甘んじることなく、どのような社会を目指していくのか。国としてすべての人の幸せを願うのであれば(日本国憲法第25条を持ち出すまでもなく)、個々人の幸せのありようを最大化するための努力を欠かしてはならない。性自認については個人としてのアイデンティティの問題であるから、基本的人権の部類であるというのが私の考えである。

このような議論の中でよく見られる言葉が、「自由」である。日本語で書くと「自由」であるが、そもそもの概念としては仏教伝来と共にやってきたものであり、「自(おのずから)に由る」の意である。そこから「自由自在に振る舞う」というような、現在我々が認識している意味として定着したと思われる。英語ではそのまま当てはまる言葉はなく、FreedomとLibertyに分かれる。福澤諭吉がLibertyを訳す際に仏教用語の「自由」を当てたことから、天賦の権利の意味を持つFreedomとしての自由と、自ら獲得する権利の意味を持つLibertyが同じ「自由」として認識されることになったと言われている。

私からしてみると、表現の自由というのは本来誰しもが与えられている権利、つまりFreedomである。よって、どのような意見だろうが尊重すべき対象であり、同意するしないに関わらず言う権利はある。もちろん、影響力を持つ国会議員としての立場で言って良いことと悪いことはあるにせよ、民主主義国家においてそれを代表として当選させている責任は我々有権者にもあるだろう。

一方でLBGT+の権利というのはLibertyであろう。有名な「自由の女神」は、Statue of Libertyである。人々は「自由」を得るために戦って、「自由」を掴み取り、そして独立したのである。よって、これはアメリカ合衆国独立の象徴となっている。先人のたゆまぬ努力を受け、そのバトンを途切れることなく受け渡し続けることで、近い将来に日本でもこの「自由」を獲得できるものと信じている。

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