「両利きの経営」(Ambidexterity)という言葉は、以前、早稲田大学の入山先生の本で読んだことがあった。既存事業の「深化」と新規事業の「探索」の両方が大事ということだったので、それくらいは分かっているつもりだったし、学問的にはこう整理するのか、というぐらいの印象で、それ以上深めることもなく終わっていた。

 今年、『両利きの経営』(オライリー、タッシュマン)という本が出て、入山先生や冨山和彦さんが解説を書かれていて再度興味をもった。読んでみると、既存事業の「深化」と新規事業の「探索」の両方やるだけではなく、トップの責任で両方を骨太に腰をいれないと、変化の中で、企業は持続できないし、それは意外なほど難しいぞ、ということを体系的かつ具体例で示していた。私自身の経験とも重なる部分が多く、強く共感を覚えた。大企業で新事業を今後起こすためのヒントが沢山あり、多くの人に読んでもらい、共通認識を持って欲しいと思った。

 特に「新規事業を独立性を持たせスピンアウトする」のが答ではないということは大事な指摘である。すなわち、探索は既存事業に引っ張られてもいけないし、かといって、完全独立でもいけないのである。既存事業の資源や実績を活かした探索が求められるわけである。SAPの例では、社内ベンチャーで新事業を起こそうとしたが、既存事業に近すぎてうまくいかなかった。フレクトロニクスでは出資会社として独立させうまくいった。ただし、新会社の社長は、親会社の役員を兼任し、かつ親会社の社長と頻繁に面会して、両者の統合的な価値と重要性を常に明らかにしたことが鍵だったという。

 ここで、もう一つ重要なことに気がついた。この「両利きの経営」が変化の中で存続するための基本条件と考えると、これは個人の人生にも適用できるのではないか。すなわち長く持続的に活躍できる人生のためには「両利きの人生」を心がける必要があるのではないか、と思ったのである。

 ここで「両利きでない人生」をイメージしてみた。例えば、本業に「選択と集中」して、新たな可能性の探索をしないことがあげられるであろう。そのような方針では、早々その人の持っているものが、変化する社会の環境とマッチングしなくなるであろう。コダック社がデジタル技術という変化で、存在意義がなくなっていったような変化を個人も受ける危険があるわけである。

 あるいは、別のパターンでは、「探索」のために新たな情報収集などを行っていても、本腰が入っていない状態が上げられる。例えば、本業とは完全に分けた趣味的な営みになっていることが挙げられるであろう。それでは本業のもっている人脈や能力が活かせない。あるべき姿は、既存の資源を大いに活かし、新たな分野で実験や学習を行うことなのである。

 ここで難しいのは、新たな探索は、本業とは大きく異なる(むしろ真逆な)態度や行動が求められることである。この矛盾に向き合うことができるかが常に問われる。人生100年時代に、常にこれに向き合う態度や姿勢こそが本質的に重要であろう。

 ここまで書いて気づいたことがある。これは別に読んだことのある馴染みある考え方ではないか。実は、変化に適応するために、矛盾にいかに向き合うかを書いた本であり、私の愛読書が『易』(あるいは『易経』。英語の書名もまさに"The Book of Changes<変化の書>"である)である。歴史的には東洋の文化や考え方に最も影響力の大きかった本の一つで、古典の中の古典ともいえる書である。

 この古典では、「探索」と「深化」を、それぞれ漢字一文字で「陽」と「陰」(あるいは「剛」「柔」)と表現する。そして、最もあるべき姿はこの「陽」と「陰」が互いに交わり合うことだと説く(これを「中」や「交」という)。これはまさに「両利き」そのものである。

 例えば、古典的には、この探索と深化の交わった状態の一つを「泰」と呼ぶ(6ビットで表すと111 000)。これは、現場が探索に積極的な一方で、リーダーが深化を志向している状態をいう。これが安泰で安定した状態だと古典はいうのである。しかし、環境の変化は、いつまでもそれを許さない。

 うまくいくことが続くと、その状態を維持する力が強く働き、それが衰退への道なのである。その時には、敢えてその反対に振ることも必要になる。これを「否」と呼ぶ(6ビットで表すと000 111)。これは現場が「深化」を指向する一方で、リーダーは「探索」に進むことをいう。これは上が外を向き、下が内向きになった状態で、互いにかみ合わない。しかし、内外のシグナルを頼りに、あえてこの道を進まなければいけない状況もある。このように変化と自分の状態に合わせて、気をつけるべきことが違うことを多数の経験からの統計によってまとめたのがこの『易』という古典で、あらゆる変化を体系的に論じているのである。

 最新の経営学は、大量の実データの収集と統計解析の結果「両利きの経営」という結論にいたった。それは、実は、過去5000年も人類が変化に向き合うために経験を統計的に統合した"Book of Changes"の知恵と同じ結論だったのである。

 ひるがえって自分は「両利きの人生」を作れているだろうか、と考えてみた。私の人生でも、後から考えると「両利き」の動きができた時に、その後に大きく花開いたことが多いことに改めて気がついた。

 しかし、両利きの人生という矛盾に向き合うには精神的なエネルギーが必要である。この最新の経営学書と最古の古典を合わせ読むのは、そのエネルギーや勇気を得るのにとても有効だ。

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