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文化を「小さな箱」から解放させるー「意味づけ」を起点に社会を構想する

この1年間、どこの国でも文化芸術分野は極めて不利な立場に追い込まれました。日本では文化行政、あるいは文化の社会的位置づけの弱さが露呈したとの指摘があるようです。

翻って日本。芸術コーディネーターの米屋尚子は「産業として分析されてこなかったため、国はどこを支援すれば業界が回り出すか全く把握していない」と指摘する。文化庁が用意した21年度の支援策は通称「ARTS for the future!」。何か新しいことを企画すれば補助金を出すという。見取り図のないまま、未来へ向けて金をばらまく。

こういった日本の文化に関する記事を目にするたびに、ぼくが思うことがあります。そもそもが、文化芸術と社会の距離があり過ぎる。更に表現するならば、文化芸術を小さな箱に閉じ込め過ぎていないか?という印象をもちます。どうも文化芸術を社会の駆動力と見なしていない。動的ではなく静的にみている。そのことによるボタンの掛け違いがある。そのように思えて仕方がありません。見方がリアリスティックじゃないのです。

言ってみれば、用を足すことが十分に満たされた後、はじめて文化芸術があると認識されている。人はどんな境遇にあっても、何らかの装飾を身の回りに施そうとする欲求がある現実を見ていない、と言ってよいでしょう

これ、おかしいでしょう?

というわけで、今回は文化芸術を巡る話をします。イタリアや欧州の視点で語ります。必ずしも、この1年のことで欧州の文化行政の評価が特に高いとは耳にしないですが、上述の記事を理解するに参考になるのでは、と。

イタリアの歴史とアート史の教科書を眺めていて分かったこと

息子がミラノの小学生のとき、歴史の教科書をみました。すると最初にフランスにある先史時代のラスコー洞窟の絵が掲載されています。そして問いがあるのです。「これは馬か?牛か?あるいは他の動物か?」と第一問。次に「そう思った根拠を説明せよ」と第二問。

これをみて、ぼくは歴史とは解釈であることを教えるのだと思ったら、巻頭ページに「歴史家とは刑事のような仕事である。少ない事実から全体の姿を探っていくものだ」と書いてあります。

高校生の時の美術史の教科書も、日本で教育を受けたぼくの目には新鮮でした。1冊400ページで2冊でワンセット。これを2年間で勉強します。2ページに一つ、建築物、彫刻、絵画などの写真があり、その分析が詳細にされています。息子が通ったのは美術の学校ではなく、科学系の学校です。徹底して個々の作品を分析し、かつそれが代表する意味を見いだす訓練を受けているわけです。

このような教育を受けた人たちが日本に出かけるとどうなるか?

京都の歴史的建造物のディテール、東京のソニープラザにある製品、これらの事例から何らかの文化的共通性を見いだそうとします。即ち、分野を超えてそれぞれの人の表現には意味があるはずだから、その集積で社会や文化の全体像を理解できるはず・・・というよりも、理解するしかないと自覚しているのです。

問題解決はインフラをつくり、センスメイキングは文化をつくる

ソーシャルイノベーションの第一人者であるエツィオ・マンズィーニは、デザインのアプローチとして問題解決と意味形成(センスメイキング)の2つがあり、この両者は相互に絡み合っているが、傾向としては次のような結果を生むと言っています。問題解決はインフラを生み出し、意味形成は文化を生み出す、と。物理的、非物理的を問わず、行為の結果に意味づけをしないと文化にはならないのです。

ミラノの学校教育で書いたように、アウトプットと意味の関係の理解が図られると、今度は自らのアウトプットに意味を付与しようとの習慣が発揮されるわけです。必ずしも、そのプロセスは計画的・直線的ではありません。だが、いずれにせよそれらが対となり、アウトプットは瞬間的に蒸発するものではなく、長期的に生きるものになります。

ここで述べている文化は、日常生活に根付いている考え方や様式などを想定しています。プロのアーティストが創作する芸術作品をベースとした芸術文化をダイレクトに指していまぜん。しかしながら、人のアウトプットにはインフラになるものと、文化になるものがある。後者には意味づけが起点にある。こういうことを承知していると、例えば、ビジネス行為と芸術文化領域が連続的に見えてくるはずです

テリトーリオ(地域)や風景にも意味が関わってくる

テリトーリオというイタリア語の言葉があります。地域を表します。いわゆる行政区画ではなく、環境や都市計画のレベルでの枠組みとして多用されます。したがって地形や歴史・文化・アイデンティティなどの要素をもって、ひとつの地域を括ることになります。ある風景を共有する連帯感みたいなところもありますね。

どういうことでしょうか?

まず、都市、郊外、その周辺の田園地帯までをも包み込むことにもなります。あるコンテクストを共にしている人たちのエリアとも言えるし、ある意味を共有している人たちのゾーンであるとも表現できるでしょう。つまり時間の流れの上に人々の生活が営まれ、そこで動画的に見えている風景、そこに込められた意味がある程度に(行動様式も含め)共有され可視化されている空間ということになります。

そう、ここでも意味が鍵になってきます。

ラグジュアリー領域の企業が文化の促進に力を入れるわけ

ラグジュアリー領域の企業が財団をもち、名の知れた建築家がデザインした美術館を運営し、所蔵のコンテンポラリーアートの作品を展示する。あるいは職人技の普及をサポートする。このような特徴が、この分野の企業にはあります。

芸術文化の世界と近接であるとアピールして、自社のビジネスに箔をつけるという下世話な部分がないとはいえない。ただ、そうした面だけでなく、もともとラグジュアリー領域が文化継承者としての性格が強い、との点に目を向けるのが妥当でしょう。アバンギャルドであるよりも、過去から連綿とある普遍的な価値を「新しい意味」として捉え直し続けることが期待され、その役割を任じている、というわけです。

2010年代の前半、欧州委員会がラグジュアリー領域を「文化とクリエイティブ分野」としてサポートすることを決定したのは、以上のような文脈にのっているからです。この分野がEUのGDPの4%、輸出金額の10%という経済的貢献があるのは確かながら、仮に経済的貢献度だけなら、文化分野としてバックアップするはずもありません。

オークションハウスのサザビーズの傘下にある、ロンドンのサザビーズインスティテュートでラグジュアリーマネイジメントを教えるフェデリカ・カルロット氏が、ぼくのインタビューに次のようなコメントを寄越してくれました。

ラグジュアリーは文化の駆動力になります。企業のもつ価値以上に社会的文化的に占める位置が大きいはずです。また人々の精神的価値にも貢献します

冒頭でぼくが「文化芸術を小さな箱に閉じ込め過ぎていないか?」と書いた理由が少しお分かりいただけたでしょうか?ぼく自身、風景と意味の関係を考えているところで、最近、イタリアの地方の風景を巡る経験史をメモしました。

写真©Ken Anzai


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