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日本はどこに行く—シチリアで考えたこと(下)

コロナ禍を契機に、減ってよかった時間は、会社の飲み会と通勤時間。増えてよかったのは、趣味の時間と家族との時間と食事の時間。これからも、その増えた時間を維持したいーそんなアンケート結果(セイコー時間白書2021)に実感があった。コロナ禍の出口を感じる社会空気が漂うなか、日本の現在地の時間、未来地の時間はどうなっているのだろう

1 コロナ禍は本当に終わったのか

JR京都駅

マスク着用が自由になり、街を歩く人々の風景が変わった。観光客が一気に増えた。たとえば京都。伏見稲荷大社に清水寺に二条城に金閣寺に嵐山に、世界からの観光客が戻ってきた。京都駅の構内のみどりの窓口が大行列。京都観光を終え新幹線で国内のどこかに移動するために、新幹線のチケットを買い求める人で混在している


コロナは、本当に終わったのか?

日本は、どうなろうとしているのだろうか?この3年で変わったことと、変わらなかったことがある。この3年で良くなったことと、良くなくなったことがある。耐え続けたコロナ禍3年は、やっとコロナ禍は終わっ、もう耐えなくてよくなったと考える人と企業、コロナ禍を契機にした構造変化を読み取り準備してきた人・企業がある

大きな岐路に私たちは立っている
あなたは、どつち?

世界からの観光客をお迎えする日本は、どうなのか?コロナ禍での3年の変化を踏まえることなく、コロナ禍前に戻ろうとしているのではないか?コロナ禍前の価値観で、コロナ禍3年で価値観が変化した海外の人に向き合おうとしていないか?コロナ禍3年で、人々がどう変わろうとしているのか?

 (COMEMO池永「日本をアニメから知る——シチリアで考えたこと(中)」

2 家族だから、当然じゃないの

イタリアの小・中学校は、午前中で授業がおわる。おじいさんおばあさんが学校に迎えに来て、子どもと手をつないで家に帰る。お父さんとお母さんは仕事場から家に帰ってきて、家族みんなでランチをする。レストランのランチは13時半からが多いのはそのためもある。“わざわざ家に帰ってくるのはムダじゃないの?”とイタリア人の友人に訊ねると、「どうして?家族なんだから。みんなで一緒になって食事するのはあたり前じゃないの」と不思議そうに見られた

(COMEMO池永「ダカラコソ いま ― “笑顔”が見つめているのは」)

イタリアでは4回の渋滞がある。朝の通勤ラッシュ、ランチのために家に戻るラッシュ、ランチ後に再び会社への通勤ラッシュ、夕方の退勤ラッシュの4回。イタリア人は食事を大事にする、家族を大事にする。ワークかライフではない。ライフが大事。そのライフの中核に食がある。コロナ前のイタリアと、変わっていなかった

先月訪ねたシチリア島の街は、静かだった。コロナ禍影響が脱していないのだろう、フィレンツェやミラノへのインバウンドは戻りつつあるが、シチリアへの世界からのインバウンド観光はコロナ禍前のレベルには戻っていない。観光客が地元住民の生活や自然・都市環境に影響を与えるオーバーツーリズムが、コロナ禍で解消している

しかしEU内での観光客の往来がもどりつつあり、とりわけイタリア国内を家族で行動する人が増えている。地元の商店、レストラン、バールなどで過ごす地元の人々が戻りつつあるが、コロナ禍前とすこし変わってきている

人々の交流の場であったバールなど街のなかでのコミュニケーションが減り、喋らなくなったイタリア人が増えつつある。コロナ禍になったからそうなったのではない、コロナ禍前からの構造変化が進んでいた

(COMEMO池永「喋らなくなった人たち—シチリア島で考えたこと(上))

3 日本はどこに行く


シチリアの街の広場や通りに、市が立ち、露店が並ぶ。骨董、美術品、書籍、日常品に、食材や食品が売り買いされる。週末の蚤の市だけではない、平日にも朝市がたつ。農家や漁師が市に持ち込む。シチリアの多様多彩な食材だけでなく、オリーブオイル、トマトソース、レモンのマーマレード、チーズや生鮮加工品などが並び、地域の人たちがその日の食卓の食材を買う。食の生産地と食卓が深くつながっている。市での生産者とお客さまの対話が濃い。食の豊かさは圧倒的である。食の生産地と食卓が深くつながっている。

そしてシチリアの街は、朝と夜で変わる。市は朝だけではない、夜にも露店が立つ。レストランは通りにテーブルを並べ、通りに屋台がたつ。人と人の会話が進み、時間がふけるにつれて、街全体の熱量が高まる

商店や朝市などとともに、スーパーもある。そのスーパーのDX化が遅れているわけではなく、Eコマースも進んでいる。そのスーパーで、日本と違うシーンを観た

野菜、精肉、鮮魚コーナーごとに店の人が立ち、来店されるお客さまに、丁寧にその日の食材や料理の話をしている。10分も15分も、会話が交わされている。彼らはコーナーの責任者で、コーナーの食材・加工品すべてを把握しているだけでなく、料理も詳しいプロフェッショナルが自分の売り場に立って、積極的にお客さまに声をかけている。お客さまは、コーナー責任者とのやり取りを楽しみにしている。イタリアのスーパーは楽しく、活気がある

日本のスーパーは経営効率化、人手不足のために、効率化・省力化を進め、無人化を進めている。お客さまとの会話がどんどん減っている。スーパーの売り場で見るのは商品を補充する人が中心。レジもキャッシュレスが増えるむ。ロボットも導入しようとしている。このように日本では無人化が進んで、無言化が進んでいる。そんな街って、楽しいだろうか

イタリアは人を見ている
日本はモノを見ている
大きく違う

誰かと、なにか話をしたい。今日も一日、誰とも話さなかった。単身の人が増えて、誰かと人と話をする日常が減って、スマホが増えて、誰かと対面で話をすることが減った。テレワークが増えて、オンラインミーティングでパソコン越しに話をしても対面で会社の人と会話することが減った。外に出ることが減って、誰かと話をすることが、格段と減った。今日も1日、誰とも話をしなかった。誰かと、なにかを、話をしたかった

(COMEMO池永「本当は、誰かと一緒に、話をしたい」)

シチリアにも自動販売機コーナーはある。監視カメラとITで遠隔ネットワークされているが、それはあくまで都市生活のサブ。基本は、人と人の接点、対話で、それを大切にする。効率性を追求した日本風のコンビニのような店はほとんどない。シチリアでは、人と人がつながる場が街に埋め込まれている。人と人の対話が弾むような仕組みが埋め込まれている


かつて日本にあって失くしつつある
大切なことをシチリアで観た

例えばデジタル機器だ。乗務員同士の連絡やお客様からの要望を聞くためタブレット端末の配布を考えたが結果的に取りやめた。乗務員は直接出向きご用をお尋ねする。部屋に大画面テレビを置くのもやめた。人と接することこそが価値だと考えたのだ。

(唐池恒二 私の履歴書(25)出発進行)

食を大事にしない街って、対話がない街って楽しいのだろうか?日本って、どこに向かおうとしているのだろうか?

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