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成果をあげるのがエグゼクティブの仕事。そして成果をあげる能力は習得できる

新型コロナウイルスの感染拡大で外出自粛が続き、紙の書籍販売が打撃を受けている。一方で自宅で過ごす人が増え、需要を掘り起こす好機にもなっている。読者の心をつなぎとめ、いかに読書の楽しさを伝えられるか。「巣ごもり読書」の開拓を狙い、出版社や大手書店が工夫を凝らしている。

自粛が続いて外で遊べない中、読書する人が増えたと聞きます。

私はGW中にまとまった時間が取れたので、久しぶりにP.F.ドラッカーの名著「経営者の条件」を手に取りました。

「あなたは経営者でもないのに。意識高い系ですか」なんて言わないで!

邦題の「経営者の条件」がイケてないのです。戸田奈津子さんぐらいの誤訳なんです。原題は「The Effective Executive」で、直訳すると「成果をあげるエグゼクティブ」となります。

ドラッカーはエグゼクティブについて、次のように定義しています。

 今日の組織では、自らの知識あるいは地位のゆえに組織の活動や業績に実質的な貢献をなすべき知識労働者は、すべてエグゼクティブである。
(略)
 したがって経営管理者のほとんどがエグゼクティブである。しかし現代社会では、経営管理者ではない多くもまたエグゼクティブである。知識中心の組織すなわち知識組織においては、最近明らかになっているように、責任ある地位、意思決定を行う地位、権限をもつ地位に、経営管理者だけでなく、独自の貢献を行う専門家が必要とされるようになっているからである。

つまり「組織に影響を与える意思決定を行う労働者」=「エグゼクティブ」なのです。リスティング広告のスペシャリスト、SEOの専門家、UI/UXの大家…彼らもまた、経営者(CXO)でなかったとしてもエグゼクティブです。

そもそも、本書は経営者になる「条件」については何1つとして書かれていません。エグゼクティブ自らが成果をあげる「方法」について書かれています。ドラッカーは本書の出だしを次のように書いています。

 普通のマネジメントの本は、人をマネジメントする方法について書いている。しかし本書は、成果をあげるために自らをマネジメントする方法について書いた。ほかの人間をマネジメントできるなどということは証明されていない。しかし、自らをマネジメントすることは常に可能である。

したがって本書のタイトルは「経営者の条件」ではなく、本当は「エグゼクティブが成果をあげる方法」が適切ではないかと思います。

さて今回は、久しぶりに読んだ「The Effective Executive」について自分なりのまとめを約9000字で整理しました。(1万字に800字足らず)

ちょっと長いので、移動中、風呂などまとまった時間で消化するのをお勧めします。

なお、ドラッカーの言葉の引用は、「」で括るか"引用"表現をしています。


「成果をあげる」とはどういうことか?

まず、そもそも論になりますが「成果をあげる」とはどういうことなのでしょうか。ドラッカーの言葉を借ります。

成果をあげることがエグゼクティブの仕事である。成果をあげるということは、物事をなすということである。(略)エグゼクティブは常に、なすべきことをなすことを期待される。すなわち成果をあげることを期待される。

自分がやるべきことをやる。それが成果をあげることです。非常にシンプルな解答ですが、それが非常に難しいのです。

ドラッカーは「肉体労働者は能率をあげればよい。なすべきことを判断してそれをなす能力ではなく、決められたことを正しく行う能力があればよい」と言います。つまり、エグゼクティブ(「肉体労働者」と対比して「知識労働者」と呼びます)は「何をなすべきかを決める」のが重要な資質となります。

皆さんの周囲にも「すごく頭が良いはずなのに、全然成果をあげない人」がいるはずです。それは問題を解く能力が高くても、解くべき問題を間違っていると私は考えています。頭の良さは関係ないと思うのです。

何らかの重積ある役職に就いている人がいて、部下が何百人もいる人がいます。そういう人は、より多くの仕事量がこなせるはずですが、より生産的であるとは限りません。ベンチャーがある日、大企業の地位を脅かすのは、成果は人数で決まらないからです。果敢に意思決定を下し、数人ながら驚くほどの成果をあげるのは、頭が良いからだけではなく、何をしたら成果があがるかが見えているからでしょう。

知識労働者の成果は、自らの知識、アイデア、情報です。それらは、たった1人だけで世の中に提供できる可能性は低く、複数人の知識労働者と共に合わさればこそ社会に価値として提供できます。したがって、これまでの肉体労働者のような測定評価から抜け出さないといけません

IEや品質管理など肉体労働者の仕事を測定評価するための手法は、知識労働者には適用できない。不適切な製品のために美しい設計図を大量に生産するエンジニアリング部門ほど、ばかばかしく、非生産的な存在はない。

しかし、現実はどうでしょうか。多くの知識労働者は肉体労働者同様に何をどれくらいやったのかKPIなる定量の成果指標を持たされ、あげく成果をあげれずにいます。

評価指標ではKGIに至るKPIが重視され、何をしたかではなく、何を準備してきたかが問われるだけでなく、成果をあげようにも自らの時間を奪われ、日常業務に追われ、組織に働いている故のしがらみに囚われ、いつしか外の世界が歪んで見えるようになっているからです。

改善する唯一の方法こそが「成果をあげる能力を向上させること」です。ドラッカーは「成果をあげることは1つの習慣である。実践的な能力の集積である」と主張しました。

その中で、ズバ抜けて重要だと感じた習慣をここから取り上げます。


汝の時間を知れ

通常、仕事についての助言は「計画せよ」から始まる。もっともらしく思えるが、問題はそれではうまくいかないところにある。計画は紙の上で消える。よき意図の表明に終わる。実行されることは稀である。

私自身、何度も経験し、また何度もやらかしてしまったのが「会議で計画を提案し、盛り上がったものの、宙ぶらりんに終わる」すなわちスカスカの打ち上げ花火です。

なぜ、そうなってしまうのか。

ドラッカーは「成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする」と説明します。時間は、もっとも普遍的な制約条件です。

恐らくは何の成果も生まないであろう仕事、自分は必要だと思っていたけど全体のプロセスを見通せば実は不要だった仕事、自分がやる必要は無いのに今までの習慣やメンツだけでやっている仕事、そうした仕事が時間をどんどん奪っていきます。

成果をあげるには大きな塊となる時間が必要ですが、これらの仕事に手が取られるあまり、時間は細切れとなり、1日8時間のうち会議が詰まって5分が3回、10分が1回、1時間が1回しか残らない…なんて経験、誰にだってあるでしょう。

では、それらを纏めて1日1時間半あるから何か考えて…と強要するのは違います。5分なんて会議の合間の休憩にしかなりませんし、10分では集中し始めたと思ったら直ぐに会議に呼び出されます。

自由に使える時間を見つけ、それを大きくまとめる。それがドラッカーの提唱する習慣の1つです。

①成果の生まない仕事を捨てる
すべての仕事について、まったくしなかったならば何が起こるかを考える。何も起こらないが答えであるならば、その仕事は直ちにやめるべきである。
②他の人でもやれることはないか考える
成果をあげるべき者が行っている仕事の膨大な部分は、ほかの人間によっても十分行うことができる。重要なことに取り組めるようになるには、ほかの人にできることはほかの人にやってもらうしかない。
③時間浪費の原因を排除する
周囲の人間に聞いてみる。「あなたの仕事に貢献せず、ただ時間を浪費させるようなことを私は何かしているか」と。

組織で働く人間だけでなく、全ての働く人間が、不必要・非生産的な時間が多いと思っています。日本は「生産性が低い」なんて言われますが、程度の差はあれど、どこの国も同じではないか…と思っています。

じゃあ不必要・非生産的な仕事は自ら整理すりゃいいじゃん!と思うのですが、ドラッカーは「間違って重要なことを整理してしまうのではないかと恐れる」「通常、誰でも自分自身の重要度については、過小ではなく、過大に評価しがちなものである」と述べます。

「自分の重要性」「自分の存在意義」を守るために働く人もいるらしいですからね…(私は幸運なのかお目にかかった経験はありませんが)。

自由に使える時間を見つけ、それを大きくまとめるために、①〜③を定期的に行い、改善する必要がありますが、それらをしても治らない場合があるとドラッカーは指摘します。以下4つです。

①システムの欠陥や先見性の欠如からくる時間の浪費
周期的な混乱、繰り返される混乱である。二度起こった混乱を、三度起こしてはならない。
②人員過剰からくる時間の浪費
小学一年の算数の教科書は、「溝を掘るのに二人で二日かかりました。四人だったら幾日かかりますか」と聞いている。一年生にとっての正解は一日である。現実の世界ではおそらく正解は四日である。
③組織構造の欠陥からくる時間の浪費
その兆候が会議の過剰である。会議は元来、組織の欠陥を補完するためのものである。
④情報に関わる機能障害からくる時間の浪費
情報の不全、あるいは不適切な情報。

粘り強く、しかし確実に改善する必要があります。努力も必要でしょうが、その分の成果はとても大きい。これらは結局のところマイナスをゼロに近付けるタスクですが、いつまでもマイナスにしていることが間違ってます。

「時間は稀少な資源である。時間を管理できなければ、何も管理できない」とドラッカーは言っていて、これは本当にその通りだな、と思います。


果たすべき貢献を考える

時間が確保されれば、次は「貢献」を考えます。

ケネディ大統領ではありませんが、何をしてくれるかではなく、何をなすべきかを考えるのがエグゼクティブです。組織にどのような貢献ができるかを考えるのは、すなわち「可能性の追求」だとドラッカーは主張します。

ところが多くの人が「成果ではなく努力に焦点を合わせ」ており、自らが持つべき権限にばかり目を向け「何ができるようにしてくれるのか」ばかり言います。実につまらん話です。

「何をさせて貰えるか」は間違った考えだけではなく害悪です。権限は、貢献に付随するもので目的ではなく手段です。何をなすべきかを考えた時、権限は手段として効力を発揮します。

人は課された要求水準に適応する。貢献に照準を合わせる者はともに働くすべての人の視点と水準を高める。

自らに何を課すかで、自らが何に挑戦するかが決まります。だからこそ「可能性の追求」なのです。自ら課す「可能性」のハードルは、組織にどのような貢献をするかで決まっていきます。具体的には3つの種類があります。

①直接の成果
企業においては売上や利益など経営上の業績。組織を生かすうえでカロリーの役割を果たす。
②価値への取り組み
自社の持っている価値を育てる。方向付ける。方向性のようなもの。ビタミンやミネラルの役割を果たす。
③人材の育成
今日、明日のマネジメントにあたるべき人間を準備しなければならない。人的資源を更新しなければならない。

①②が現在のための貢献なら、③が未来のための貢献です。そして重要なのは③です。ドラッカーは「次の世代は、現在の世代が刻苦と献身によって達成したものを当然のこととし、さらにその次の世代にとって当然となるべき新しい記録をつくっていかなければならない」と主張します。

これは転職や異動により組織が変わった人にとって、特に重要な話です。エグゼクティブは成果を出すだけでは50点、自分がいなくなっても回る組織を作ってこそ100点と何度も聞かされました。

しかし、少なくないエグゼクティブが新しい組織で求められる「なすべきこと」が分からず、今まで通りに仕事をしようとして失敗します。以前の仕事で正しかった仕事は、新しい仕事ではたいてい間違った仕事なのです。

今の仕事で、何をなすかを整理するのが新しいポジションで重要じゃないかと思うのですが、忙しさのあまりか、あるいは自惚れか、サボっている人が多い印象です。「私は今までやれた」んでしょうけど「だから次もできる」保証なんてどこにも無いんですけどね。


強みを活かす

「貢献」のためには、「強み」を活かす必要があります。

なぜなら、弱みから成果は生まれません。強みから成果は生まれます。そして誰もが強みを持ち、同時に弱みを持っています。

つまり人の弱みを隠すには、その他の人の強みが必要です。私は、そうして開発されたのが「組織」だと考えています。ドラッカーは「弱みに配慮して人事を行えば、うまくいったところで平凡な組織に終わる」と言いました。

人に成果をあげさせるには、「自分とうまくいっているか」を考えてはならない。「いかなる貢献ができるか」を問わなければならない。「何ができないか」を考えてもならない。「何を非常によくできるか」を考えなければならない。

この文章ほど、何度も繰り返し読んだか分かりません。

プロジェクトマネジメントをしている時、クソほど嫌いな人がいたとしても「仕事ができるから何も問題ないのでは」と思ってましたし(プライベートでは絶対に交わりたくなかった)、逆に貢献しなければならない仕事にいながら実力を発揮できない人は「降りてもらう」「抜けてもらう」を何度か上長に進言させていただきました。

なぜなら組織全体のパフォーマンスが落ちるからです。その人がおられることで、その人だけでなく、他の人の成果も出し難くなります。存在がボトルネックになってしまう。それはその人が悪いのではなく、そのポジションに据えた人が悪いのですから、移動して貰うのが筋です。そして、その人が強みを発揮できるポジションに移るべきです。

35年間生きてきて、何人か「心に残る良い上司」がいます。みな、様々な特徴を持っていましたが、みんな「松本は何ができるか」から考えて、その次に実際にその仕事を行えと要求してきました。

逆に「心に残る悪い上司」は、私の弱点を見て「松本はこれができなだろうから、(残った)こっちの仕事をして」と要求してきました。

この違いは小さいようで、とても大きいです。後者は事実上、成果をあげなくて良いと言っているのですから。

現在、組織のダイバーシティが謳われています。その本質は「様々な強みを集める」「弱みを気にしない」でしょう。頭と同時に、手足がついてきますから、結果的にいろんな人の集まりになります。多様な働き方は重要ですがど真ん中の本質では無いと考えています。

ただ、その悪い上司が根っこから悪意があるのかと問われれば、そんなことも無いと思っています。プライベートは嫌いではありませんでした。ただ、当たり前のように「人に仕事を作る・割り振る発想」をしていました。「こういう人がいるから、新しくこんな仕事をやってもらおう」と言っていました。

様々なケースがあるでしょうが、それはやがて好き嫌いに発展し、その人にできないなら仕方がないと馴れ合いが生まれ、やがて組織内の公平さに欠けて「なんであいつは仕事ができないのに、あのポジションなんだ」と嫉妬を生むでしょう。というか実際そうでした。

本来、人に合わせて仕事は変えられません。ドラッカーは「オーケストラの指揮者は、オーボエ奏者がいかに優れた音楽家であろうとも、第一チェロの欠員の補充としてさいようしたりしない」と言いました。しかし、組織では往々にある光景です。

新しい人に合わせて新しい仕事をつくるって、バクチじゃありません? 仕事もバクチ、人もバクチです。せめて、新しい仕事に今までいる人に割り振りたいものです。

人中心ではなく仕事中心に設計する。なすべき仕事(貢献)に対して強みを活かせる人を割り振る。それが本来のあるべき姿なんでしょう。

ただし、言うは易し行うは難しで、「人ありきで、仕事を割り当てる」のに慣れてしまったため、「仕事ありきで、強みを発揮できる人を割り当てられる」ように仕事を分解する能力を持つ人が少ない。言い換えると「難易度の高い仕事は、それをこなせるスーパーマンを雇えば良い」と思っているのです。でも、それは繰り返しですが博打です。

ドラッカーは、人に合う(強みに合う)仕事を設計するために、次の4つの原則を主張しました。

①適切に設計されているか
仕事は人の手によるものである。したがって不可能な仕事、人にはできない仕事をつくってはならない。
②多くを要求する大きなものか
一人ひとりが、それぞれの強みを発揮するものでなければならない。仕事の大きさが、挑戦を受け能力を試すにはあまりに小さすぎるとき、若い知識労働者は組織を去るか、さもなければ急速に不機嫌で非生産的で未熟な中年となってしまう。
③その人間にできることか
当たり前ですが、その人の強みでできることかを考えなければならない。
④弱みを我慢できるか
当たり前ですが、強みを手にするには弱みは我慢しなければならない。「この人は強みをもっているか」「その強みは仕事と関係があるか「その強みによって卓越した成果をあげることは重要か」を問わなければならない。そして答えが「イエス」であればそのままその者を任命しなければならない。

今なすべき仕事を設計し、強みを持つエグゼクティブを当てる。そして貢献できるようにする。それが組織であり、組織を運営する経営者の最大の仕事なのだと考えます。

ただ、バランスが難しいところではあります。抜擢人事だってあります。あなたならやれる、って場合もあるでしょう。

仕事には最適の者を充てなければならないだけではない。実績を持つ者には、機会を与えなければならない。

なすべき仕事が生まれたとして、成果をあげている人のうち、その強みを活かせるのなら追加でやって貰う・異動して貰うのが良いのだろうな…と感じる次第です。


もっとも重要なことに集中する

「強み」を活かすにしても、なんでもかんでもやれるわけではありません。「集中」しなければ、強みも分散するだけです。

自らの強みを生かそうとすれば、その強みを重要な機会に集中する必要を認識する。事実、それ以外に成果をあげる方法はない。

やらざるを得ない貢献、誰かにとっての重要な仕事のためにアサインされるだけでなく、あれもやりたい、これもやりたいと様々に触手を伸ばし、たこのように足を絡めて動けなるケースを知っています。時間を忘れているんですね。

自分が成果をあげるための時間収支は、だいたい黒赤とんとんです。なので残業するか、土日にするかしかありません。私の場合、そうした意味合いもあって始めたnoteがいつしか大勢に知れ渡ったのはありがたいと思います。

成果をあげるために、ドラッカーは「集中の原則」を提唱します。

①生産的でなくなった過去のものを捨てる
「まだ行っていなかったとして、いまこれに手をつけるか」を問う。第一級の資源、特に人の強みという希少な資源を昨日の活動から引き揚げ、明日の機会に充てなければならない。
②劣後順位の決定、すなわち取り組むべきでない仕事の決定と遵守
優先事項を列挙し、そのすべてに少しずつ手を付けることによって弁解の余地をつくっておくほうがはるかに容易である。しかし、それは「集中」ではない。全てを少しずつ着手しては何1つとして終わりはしない。

つまり「捨てろ」「捨てろ」「とにかく捨てろ」なんです。

人から見たら、君子豹変す、朝令暮改なんでしょう。しかし、朝重要だったことが夜には重要じゃなくなったら、その後も「決まったから」という理由で続けるのはサンクコストの誤謬です。「ごめん悪かった、間違ってた!」と言えない人は意外と多いんですよね。

では、捨てて捨てて残ったもののうち何をやるか。ドラッカーは優先順位付けは「分析」ではなく「勇気」だと主張します。「科学的な業績は、研究能力よりも機会を追求する勇気によって左右される」「挑戦の大きなものではなく容易に成功しそうなものを選ぶようでは、大きな成果はあげられない」と言い、4つの原則を提示します。

①過去ではなく未来を選ぶ。
②問題ではなく機会に焦点を合わせる。
③横並びではなく独自性をもつ。
④無難で容易なものではなく変革をもたらすものを選ぶ。

集中するとは、究極的には「捨てる」「選ぶ」ための勇気と同義語だと私は考えています。「無難なところ」「それで大丈夫?」なんて世間の声を聞き捨てて、集中する勇気こそ大事なんだなと考えます。

もっとも将来の目標を定めるとは、「その他あるかもしれない可能性を捨てる」ことでもあります。

もし私が30歳のころに「起業するんだ!」と決意すれば、大学院に通うことも無かったでしょうし、書籍を出すことも無かったでしょう。なぜなら「起業」の目標には関係ないからです。

私は、「何かを捨てる」のが物凄くもったいなく感じました。自分に何が向くかも分からないで、目標だけ決めて可能性を捨てるのに違和感を抱いてしまって、逆に「目標を決めない」ことを目標としました。つまり、あらゆる選択肢を見据えて、何事にも挑戦するのです。

もしかしたら、何者にもなれないかもしれない。けれど、そのおかげで様々な経験値を貯めることができました。ただ実際には何者にもなれていないのは事実なので、そろそろ「集中」する時期なのかな、と感じています。


エグゼクティブの仕事は成果をあげることである

①エグゼクティブの仕事は成果をあげることである。
②成果をあげる能力は習得できる。

「The Effective Executive」は、この2つの前提に立った本です。

エグゼクティブは成果をあげることに対して報酬を貰います。役職に就いているからではありません。組織に対して成果をあげる責任を持つものこそがエグゼクティブなのです。

そして、成果をあげる能力は「才能」ではなく「習慣」です。九九のように3×3は?と問われれば「9」と答えられるように、このように仕事をすればどのような場合においても成果をあげられるであろう、とするドラッカーの目から見た法則を紹介してきました。

「習慣」は繰り返せば「癖」になります。「癖」とは無意識のうちに行っている仕草ぐらいの意味合いを持ちます。朝起きて歯を磨く「癖」ぐらいに毎日の仕事を「時間」「貢献」「強み」「集中」の観点で続けていれば、なんだか成果が上がりそうな感じがする…気がしませんか?


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