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ロジカル思考とアート思考との関係

ビジネスパーソンに、データやAIを用いた論理的な分析がますます重要視される一方で、アートを感じる力(アート思考)の大事さを説く議論も増えている。両者をいかに捉えたらいいのか。

調べるうちに気づいたことがある。実は、これは大変古くからある議論だということである。

「知ること」と「感ずること」という言葉が、日本の知識人の中の知識人ともいうべき、江戸時代の国学者、本居宣長の『紫文要領』に登場する。そして、この宣長の見識を深く読み込んで現代に蘇らせたのは、20世紀日本のこれも代表的知識人ともいうべき小林秀雄である(『本居宣長』を参照)。

我々をとりまく境遇には、過去の知識や経験で説明や予測が可能なことがある一方で、予測不能なものがある。未来は我々が今この時に生み出しているものだからである。従って、知ることでは、到達できないことが必ずある。これは科学やAIがいくら発達しようとも変わらないことである。

ましてや、個人では、自分が知っていること予測できることの範囲は、さらに狭まる。さらに若年期や子ども時代には、予測不能なことの方が圧倒的に多い状況になる。

そこで、できることは「感じること」である。そして、感じることに基づき、「信ずること」である。何を信じるのか。先が見えない状況でも、この先に道は見つかると信じるのである。先が見えない状況では、この先に道は見つかると信じることも、道は見つからないと諦めることも、どちらにも合理的な根拠はない。だが、道は見つかると信じて踏み出さなければ何も始まらない。

それには合理性や分別を超えた力が働く。知ることによる分別と感じる力とが融合する。両者は、本当は個人の中で実は分けることはできない。深く結びついている。宣長は、これを安易に分られないことを強調する。

ここで我々に必要なのが、両者を融合した、より高次の認識力である。

宣長はこれを「物のあはれを知る」と呼んだ。この「物のあはれを知る」という「道」こそが、古来、「古事記」や「源氏物語」にも描かれた、日本の人々が長く求めてきた人生のあり方なのだ(宣長は日本の「道」とは儒教や道教の道とは全く異なる概念ということを認識した)。

その意味で、ロジカルシンキングとアート思考は、本来一体で分けることなどできないことである。対立するものでもない。それこそが「物のあはれを知る」である。

この「物のあはれを知る道」は、現代の幸せに関する研究で大変重要な尺度になっている「オプティミズム」と概念的には大変強く結びついている。最近のPNASという科学誌に発表された30年に渡るコホート研究によれば、オプティミズムの高い人たちは、そうでない人たちより10才も平均寿命が長いという驚くべき結果が報告されている。

ただし、オプティミズムという言葉には誤解がつきまとう。現実を無視して、あっけらかんと楽観することではないか、という誤解である。もちろんオプティミズムは困難や現実を無視することは意味してはいない。

むしろ、現実を踏まえ先の見えない道に踏みだすこと、すなわち「物のあはれを知る」ことこそが、本来のオプティミズムである。

この複雑な世界の認識力で、日本には大変進んだ概念を既に持っていると思う。この力を今後の未来に活かしていきたいものだ。



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