お金では買えないもの、贈与について想うこと
「なぜあの先生は放課後に残って小学2年生だった私の作文を添削してくれたのだろう。」
「なぜあの先輩は私のエントリーシートを添削してくれたのか。」
「どうしてメンターは私に独立の術を全て教えてくれたのだろう。」
「子供の学校の先生はなぜこんなに手厚いサポートを与えてくれるのだろう。」
『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』近内悠太著から贈与について、自分がこれまで周りの人や社会から受け取ってきた無言の善意について改めて考えさせ、自分も社会に還元しなければと思わされました。
著者による贈与の定義とは次のようなことです。
僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動
『これまでに受け取っていたものに対するお返し』『公共心』『生きる意味や仕事のやりがいといった金銭的な価値に還元できない大切なもの』などを言葉によって再定義することができる本です。
本書でも書かれていましたが、経済学者やお金の専門家などは非常に苦手な分野でもあります。
また、シンガポールという日本以上にお金で多くの物やサービスが交換できてしまう社会で生活をしていることもあり、改めて深く考えさせられてしまいました。
そんな中、6歳の娘という媒介を通じてお金では買えない善意の世界に入ることができました。欧米や中華圏など資本主義が日本よりも暴走している部分もありますが、同時に寄付やボランティアなども日本以上に発達をしているからです。
感謝祭のシーズンにエッセンシャルワーカーに贈り物をする、クリスマスやボクシング・デーにプレゼントを贈る、旧正月にアンパオ(紅袋)を配る、学校に寄付をする、慈善活動に参加するなど。
なぜ、海外ではこのようなことを日本よりもするのか。それは日本よりもより貧富の差があり、社会保障が薄いという理由も一つでしょう。
「自助」「共助」「公助」と菅総理が掲げていますが、中華圏では親戚の中でひとり稼ぎ頭がいれば周りは全てその人によって支えられるという共助がまだあるようです。
金はまぎれもなく昇華のシンボルであり、お金とは『濃縮された富であり、濃縮された富は濃縮された罪である。罪は本質的に汚らわしいものである』こうみてくると、クリスマスに贈物をするというのは、その一年間にため込み、濃縮された罪の一部を吐き出す手段であるといえる。ここで罪というのは、とくに何かに対する罪を意味するわけではなく、人間の原罪のことである
アダム・スミスの著書『マネー・ゲーム 情報に賭ける社会』ではこのような記述があります。
私は資産運用など利殖、節約、所得を上げる努力は多くの人にとって、したほうがよいと思います。私自身も職業柄も限界まで突き詰めて考えています。ただ、そこから生まれた余剰の一部を周りの人や社会に還元させたほうが上記の原罪のようなものから開放されると考えます。
あくまでも自分の老後資金への配分を確保した後にできる範囲で無理なく行えばいいと思います。それは金銭だけではなく、ボランティアなど社会がよりよくなるような行動、思考や言葉を変える等祈りであってもよいのだと感じました。
私自身もメンターから教わったことの多くをメンティーに伝えるようにしています。また、言葉を獲得している最中の子供に毎日20分程度の語学と算数のサポートをしています。それは仕事以上に手塩がかかる作業でもあります。まずは身近なところから贈与の輪が広がっていくといいと思います。
また、子供に善意で語学を訓練してくれている先生へのクリスマスプレゼントはお金で買えるスタバのカードなどではなく、子供と一緒にカードを作るなど、できるだけ手作りでできる物にしようと思いました。そして残された期間でできるだけ成長を見せられる努力を親子でしたいと思います。善意が報酬や交換となってしまうと味気ないからです。
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