
「一つの言葉、一つの民族」という発言の持つ意味
小学校3年生くらいの時だったと思う。当時私はしばらく暮らしていた東京を離れ、母の実家近い横須賀に引っ越してきたばかりだった。東京で私が住んでいた街と横須賀は随分と空気感が違っていたのを、子どもながらに肌身で感じていた。
横須賀には米軍基地があることもあって、様々なルーツを持った人々に街中で出会う。
そんな引っ越したばかりの頃、たまたま母と一緒に妹を保育園に迎えに行くことがあった。園内に入ると、黒人のルーツを持つらしい小さな女の子が二人、園の体育着のまま私たちの脇を駆けていった。編み込んだ髪の毛がかわいらしかった。
ただ、当時の私には見た目の違ったルーツの子どもが同じ園内にいること自体、恥ずかしながら初めて見る光景だった。(もしかするとそれまでも、”見た目”だけでは分からない様々なルーツを持った人々に気づかないところで出会っていたかもしれない。)
「ねえねえ、黒人の子たちがいるよ!」
特に悪意なく私は母に言った。今思うと、周りに聞こえるくらいの声だったのだと思う。二人の女の子のうち、一人が振り返った。
そして、母もすぐ、私の方を振り返った。険しい表情だった。そしてぴしゃりと怒った。
「どんな子どもが通おうと、自由に決まってるだろ!」
…ショックだった。母に怒られたからではない。例え悪意がなかったとしても、「黒人の子だ!」と取りざたされること自体が、その子たちを傷つける行為だったかもしれない。あの時、無意識にそんな行動をしてしまった、自分自身にショックを受けたのだと思う。
もしかするとあの時、母は父のことを考えていたのかもしれない。父のルーツが韓国にあることを、日本国籍を取得するまでに多くの苦労を積み重ねてきたことを、この時私はまだ、知らなかった。
見る人がみればこれはとても些細な経験かもしれない。けれども私はこの「原体験」をくれた母に感謝をしている。単に「差別をしてはいけません」という教えを諫めるだけに留まる言葉ではなかったからだ。私の中にも無意識に、人を傷つける何かが育ってしまうことがある、という自覚を与えてくれたのだと思う。
「(日本は)2000年の長きにわたって、一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝を126代の長きにわたって、一つの王朝が続いている国はここしかありませんから」
麻生大臣が今月13日、地元の福岡県でそう発言したそうだ。
その後は「誤解が生じているなら、おわびのうえ、訂正しますと申し上げたとおり」と”幕引き”している。
これでは誤解をしているのは飽くまでも言葉の受け手である、ともとれてしまう。
この言葉を受けて、「日本人」とは誰か?を改めて考えてみた。
日本国籍の人?(日本国籍でも日本で殆ど過ごしたことがない、もしくは日本語を話さない人もいる)
日本語話者?(外国籍でも流暢に話す人もいる)
日本在住の人?(暮らしていてもルーツやアイデンティティは多様)
”日本文化”を愛する人…?
絶対的境界線はないことにすぐに気がつく。
日本は昔も今も、様々なルーツの人々が暮らしている。それぞれの文化に根差した言葉がある。
ただ、分かっていても未知のものに触れたとき、人は驚いてしまったりすることがあるかもしれない。ついつい自分の周りの風景を「全て」であるかのように思い込み、それ以外の多様性に思いが至らないことがあるかもしれない。
そんな時、大切なのは、自分自身の中にも「誤解」があるかもしれない、ということを真摯に受け止める姿勢のはずだ。だって私たちは今も昔も、そしてこれからも、隣人同士として生きていくのだから。
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