見出し画像

8月15日では終わらなかった戦争の犠牲者たち

75回目の終戦の日がやってきました。 

この記事にある通り、当然時間の経過とともに戦争体験者はどんどん少なくなっていきます。しかし、戦争のことは後の世代が語り継いでいかなければなりません。

ただ、気を付けないといけないのは、歴史とは必ずしも事実だけが語り継がれるものではないということです。教科書に載っている歴史ですら真実かどうかはわからないですし、現に「かつて真実として教えられたこと」が全く違ったものに変わっていることもあります。また、語るものが少ないためにちっとも認知されない「埋もれた真実」というのもあります。

今回は、そうした「埋もれた真実」のひとつである終戦後の特攻出撃について書きます。


8/16の夕方17時頃、23名の乗員による11機の特攻機が大分基地から沖縄に向けて出撃した。一部8/15の夕方だったという記述がありますが、攻撃を受けた米軍の記録が8/15の夜となっている。当時、米軍は日付変更線を考慮しない本国時間で記録したいたので、米軍時間の8/15は日本時間の8/16です。事実、米軍の記録において、日本がポツダム宣言を受諾したのは8/14となっています。

ちなみに、8/16の16時には日本軍は全軍に対して正規の停戦命令を下しています。つまり、この最期の特攻出撃は軍規違反違反であり、私的行動ということになる。日本側の記録で、日付が8/15に書き換えられたのはそういうった事情も考慮しての話だと思います。

この出撃を命じたのは、第五航空艦隊司令長官の宇垣中将。自らも2人乗りの彗星に無理やり搭乗して、3人乗りで出撃した。要するに、8/15の敗戦の報を聞いて(実際にはその前に敗戦の知らせは聞いていたらしいが)、自らの自決のために、若いパイロットたちを巻き添えにしたわけである。自分は航空機を操縦できないから。宇垣は、5機を用意しろと命令した。

「いやいや、だったら、勝手に日本刀ででも拳銃でも勝手に自決すればいいだろう」と思ってしまうものです。僕もそう思います。そして、当時の宇垣の部下である参謀の宮崎隆大佐が「いくら長官の命令といっても、そんな命令を起案することは私にはできません」と拒んでいます。当然だと思います。しかし、宇垣の決意は翻らない。

仕方なく宮崎が隊長の中津留大尉を呼んでそれを伝えます。中津留は「承知しました」とだけ答えたそうです。

画像3

写真右が中津留大尉。

史料によると、宇垣は中津留大尉はじめパイロットたちには、8/15の玉音放送を聞かせず、まだ戦争は終わっていないかのような工作をしたというのもありますが、真偽はわかりません。たとえそうだとしても、中津留は放送を聞いた整備員から「戦争は終わったようだ」と伝えられており、敗戦のことは知っていました。

なぜ戦争が終わったのに出撃するんだ?上官の命令といっても、もう戦争が終わったのなら行く必要はないし、拒否すればいいだろ。そもそも、戦争が終わったのにも関わらず、自分の都合で部下を道連れにする宇垣も頭おかしいのではないか。と。

そんなふうに思う人も多いでしょう。

しかし、思うに、彼らにとって、戦争は8/15では終わっていなかったのだと思います。特攻隊としていつでも死ぬつもりでいた彼らにとって、急に「戦争は終わった」「もう殺し合いをしなくていい、死ななくていい」と言われても、戦争モードにある脳は正常に機能しなかったと言った方がいいかもしれません。

出撃したもののエンジン不良で不時着し生還した二村治和一飛曹(11機中3機が不時着)の話では、出撃前夜、中津留大尉が下士官宿舎に一升瓶を下げてやってきてこう言ったそうです。

「今夜はひとつ、皆であるだけの酒を飲んでしまおうや……、貴様たちも取っておきを出さないか」

二村治和一飛曹はその模様をこう述懐しています。

大尉からそんなことを言われるのは初めてのことで、みんな一斉に歓声を上げながらそれぞれ秘蔵の酒を持ち出し、二十名ほどが車座になって酒盛りを始めた。大尉は酒には滅法強い、いくら飲んでも酔った様子はなくニコニコ笑っていた。私は酔い潰れて、いつ寝たのか全く覚えていない。

この酒盛りの時点では、中津留大尉は自分以外の誰を残りの4機に載せるか決めていたのかどうかはわかりませんが、まだその指示は出していませんでした。

攻撃命令が出たのは酒盛りの明朝です。中津留大尉は5機を発表しましたが、選から漏れた部下たちが「俺も行きます! 」と言ってきかず、大騒ぎになったらしい。

そのため、出撃可能な機体11機すべてが飛ぶことなったのです。

これには宇垣も驚き「5機だけでいい」と言ったそうだが、パイロットたちは「命令違反でも勝手に飛びます」と言ってきかず、結局11機が飛び立ったそうだ。

これを宇垣がみんなから慕われていたという解釈をするのは間違い。慕われていたとするなら中津留大尉であって決して宇垣ではない。

そして、8/16午後5時過ぎに、中津留大尉含む11機は飛び立った。

中津留は沖縄海域まで来たあたりで、戦争がすでに終わっていることを確信しました。敵機もこなければ、対空砲火もない。サーチライトの照射さえないどころか、その頃米軍キャンプはビアパーティーの真っ最中でもあった。中津留は整備員の言ったことが本当だと思った。「戦争は本当に終わったのだ」と。

それでも、同乗した宇垣は突っ込めと命令したのだろう。「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」の突入電報を最期に連絡は途絶えた。

しかし、米軍側の損害はゼロでした。対空砲火もない状態で、8機の特攻機が全部ミスって墜落するはずはないのです。

宇垣を乗せた中津留機は米軍キャンプの先の何もない岬に突入して自爆して果てた。他の7機も隊長機に従い、途中で方向を変え、誰一人敵に被害を与えることなく死んでいった。

これは、そもそも最初から中津留は、攻撃する意思はなく、さりとて、上官の宇垣の自死の意志にも逆らえず、やむにやまれずただ自爆する他、道はなかったのだろうと思います。もし、突撃して米軍に被害を与えたら、それこと国際法違反になることは大尉である中津留にはわかっていました。

ある意味、中津留大尉は最後の最後で日本を救ったとも言えます。(中津留隊の不可解な自爆についてははっきりとしたことはわかっていないようです)

また、万が一突撃して損害を与えていたら、残された家族がなんという仕打ちを受けるか、彼はそういうことも考えたかもしれません。

中津留大尉は享年23歳、大分には、新婚1年4か月の妻と、3週間前に生まれたばかりの愛娘がいました。もちろん、彼だけではなく、他の死んでいった者たちにも家族はいたことでしょう。

画像1

なぜ彼らは死ななくてはいけなかったのでしょうか?

部下を道連れにした宇垣に対し、連合艦隊司令長官小沢治三郎は、「皇軍の指揮統率は大命の代行であり、私情を以て一兵も動かしてはならない。玉音放送で終戦の大命が下されたのち、兵を道連れにすることはもってのほかである。自決して特攻将兵のあとを追うというのなら一人でやるべきだ」と激怒したという。

同様に、大勢の部下を犠牲にしたとして、中津留大尉の遺族の非難も受けた。彼の父親は、戦後のインタビューで「何故宇垣中将は息子を連れて行ったのでしょう」と歯を食いしばりながら怒りを露わにしていた。

当然でしょう。

この話を聞いた時、僕もこの宇垣という人物に対して怒りしか感じませんでした。自分が飛行機操縦できないからって、部下を巻き添えにすんじゃねえ、と。

出撃直前の宇垣の写真が残されています。

画像2

めちゃ笑顔です。飛行機で死ぬことができてさぞや満足なのでしょう。道連れに犠牲にした若い命のことなんか頭にないのでしょう。悪魔の笑顔だと思います。こんなにムカムカする笑顔ははじめてです。

中津留大尉を大分基地に配備したのは、彼の師匠でもある江間少佐という人なのですが、江間は特攻出撃するパイロットに対して「爆弾を命中させる自信のある者はいたずらに死ぬな。還ってこい」と言っていたそうです。そういう上官もいるし、江間は歴戦のパイロットでした。パイロットであればこそ、むざむざ体当たりして死ぬなんて攻撃を是とするわけがないのです。写真は、閻魔大王とあだ名をつけられていた江間少佐。怖そうですが、人の気持ちがわかるやさしい人です。

画像4

しかし、飛行機乗りではない宇垣はそんなパイロットの矜持など理解しようとせず、部下たちにつねづね「還ることはまかりならぬ」と厳命していた。

そういう奴なんです。

しかし、これ、何も戦争中だからという異常な話にしてはいけないような気がします。現代にも宇垣のようなクズ上司はたくさんいるのではないですか?部下を自分の手柄や保身のための道具であるかのように扱い、その大切な命を平気で使い捨てにする。いざ自分が責任を取らないといけない状態になったら、一人で背負う覚悟も勇気もない意気地なしが。

現代にも、あなたの周りにも、宇垣はいるのです。




長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。