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政府の「骨太方針」とは極限まで肉をそぎ落とした上での「骨だけにする方針」なんかな?

このニュースに対する僕のこのツイートがバズったわけですが…

政府の「骨太方針」というのは、骨を頑丈に太くするというのではなく、搾取に搾取を重ねて、肉を極限までそぎ落とし、まるで餓死寸前の人間のように、結果相対的に骨が太く見えるようにするようなもんだな。

ちなみに、正確にいえば「退職金がなくなる」のではなく「退職金の優遇税制がなくなる」です。

概ね好意的にバズったのだが、こういうのを書くと、決まって「終身雇用なんてやめた方がいい」とか「無能な奴を辞めさせられないと生産性が下がる」などと竹中平蔵みたいなクソリプを書いてよこして書いてよこしてくるのがいる。さぞご自分は有能な人間だと勘違いしていらっしゃるのでしょう。それはそれでしあわせなことでよござんした。

見も蓋もない言い方をすれば、企業の中で有能な人間なんてものはせいぜい2割程度しかおらず、残りの8割のうち6割はまあまあ普通に真面目な人で、残りの2割は使い物にならない層がいるものです。「パレートの法則」とか「働きアリの法則」とかいわれるものです。

勘違いしてはいけないのは、この有能か無能という区分は絶対的なものではなく、あくまでその企業の集団の中にいた場合の相対評価です。だから、たとえばある企業で有能だと勘違いしたバカが転職して、もっと上のクラスに転職した場合に周りは自分よりもっと有能な人で転職先でダメになるケースもあります。逆に、新卒の就活でうまくいかず、中小企業に就職したものの、やりがいのある仕事がなくて、何の偶然か、大企業に転職した結果、とてつもない成果を出す人もいる。

その人の能力とは、場所と時間と相対する人間という環境によっていかようにでも変わるものなのです。

話がそれましたが、私は終身雇用は継続すべきだと思います。が、終身雇用は是でも年功序列がいいとは言っていません。単に年齢が上なだけで出世したり、給料が高くなるような単純年功序列はある程度見直すべきでしょう。しかし、今大企業などで活用されている職能給とか成果別の年収ランクとか制度も、所詮上司に気に入られるかどうかで評価が決まるのでいいとも思いませんが。いずれにしても、終身雇用があるから、無能がのさばるとかいう理屈には意味がない。無能が一定数いるから有能は有能と勘違いして頑張れるということもある。

最近は「働かないおじさん」をバカにする風潮がありますが、彼らにもそれなりの役割がある。

そして、何より、意識高い系のいう実力主義とか解雇規制の撤廃とかアメリカ流の雇用はむしろ「一周回って」時代遅れになると思う。

日本は世界一の超高齢国家です。65歳以上の比率が2020年時点で29%もあります。3人に1人は高齢者です。2041年には35%にも達します。少子化で若い人口が少なくなるのだから当然です。

要は、これからは今まで高齢者といわれた65歳以上の人たちがのんびりと隠居なんかしていられては困るわけです。65歳以上でも普通に働いてくれないと。もちろん、定年はあってもいいですが、今までのように60歳で引退、65歳で引退とか言ってる場合ではないのです。

大企業では、役員にでもならない限りは、55歳あたりで役職定年があって、管理職をとかれ、平になって多少年収さげられて、60歳以上も定年延長した場合は、事前にその分の年収も按分で減らされて、60歳以降再雇用の場合も以前より年収は減らされます。それはそれで仕方がない。55歳以上に単に年齢が上というだけで高い給料を払い続ける理由はない(但し、会社によっては年齢関係なく、管理職には向かないが生涯プレーヤーとして成果を出す人もいるのでそういう人には相応の給料があってもいい。要は単純に年齢で給料を決める必要はない)。

忘れてはいけないことは、有能とか無能にかかわらず(というか大抵有能じゃないので、起業とかできるわけではない)、雇用を高齢化時代にあわせて維持しないといけないという観点です。

バンバン解雇して、会社はいいかもしれないが、社会全体としては失業手当が増えても、生活保護が増えても困るのですよ。ただでさえ高齢者社会保障比率が大きいのだから。

何より一番は、退職して何もしない高齢者は腐ってしまう。人間は何か仕事があって、それが何かの役に立っていると思えるむだけで生活の張り合いになる。何もやっていない人間は、何もやっていないことにストレスを抱えて、ロクでもないクレーマージジイになったりするわけでさ。

そして、雇用が継続されていることで経済的に自立し、それが消費を生むことになる。定年退職した高齢者がまったく消費しないのは、新たな収入がないことの不安も大きい。

とにかく、「死ぬまで働いた方がいい」んですよ。それは生活のためという人生のQOLのために。そして巡り巡って、それは社会全体の社会保障費の削減になるし、無駄な医療費の削減になるし、給料を得ていることで年金給付の削減になる。今後チマチマそういうのをやっていかないと財政崩壊する。

もちろん、仕事以外にやりたい趣味がある人はそれをやればいいけど、全員がそういう趣味を持っているわけではない。そもそも「趣味ゼロ」という人も案外大勢いる。何より、仕事をしていないと人間関係がゼロになると人も圧倒的に多い。人間関係どころか会話がゼロになる人も。

言い方悪いけど、そういう何もない人が仕事もなく毎日をぼーっと過ごすことは、本人にとっても社会にとってもメリットは何もない。逆に、週3日でも何か仕事をしていることで、本人には社会との接点と自己の社会的役割を感じられた方が、本人だけではなく社会にも経済にもよい。

有能か無能かなんかはどうでもいい。中高年者にとって働く場や機会が与えられるということがこれからの福祉なんだと思う。

よって、クソみたいな西洋かぶれの働き方改革なんかより、日本古来の「百姓」の働き方を見習った方がいい。

百姓とは農民ではない。江戸期だけではなく、中世においても、農業あるいは漁業・林業をやりながら、副業として商いをしたり、職人として物を作ったり、酒を製造したり、衣服を作ったり、宿を運営したり、金貸しをしたりといろいろやっていた。いろいろな仕事をやっていたから百姓なのである。

そもそも、農民は農民とかいう余計な縛りを作ってしまったのは明治維新の壬申戸籍である(ほんとに明治政府ロクなことしてない)。

何なら、副業として武士(役人)をやっていた(やらせられた)のもいる。面白いのは、農民の時は農民の名前、物売りの店をやっている時は屋号の名前、武士をやっている時は武士の名前というように、役割に応じて名前も複数持っていたことである。

これこそ自己の役割の多重性であり、一人十色の新しい自分の開発でもある。もっとも、江戸期までの百姓は土地から離れられないという地域コミュニティ縛りがあったが、それさえなければ、現代に通じる「接続するコミュニティ」の中での自己イノベーションと同等なのである(詳しくは拙著を読んでね)。

そして、百姓は死ぬまで働いた。働くことが生きるってことだからだ。

なんでもかんでも西洋の物真似をするのではなく、日本の古いけれど活用できる良きことも知っておいた方がいいだろう。見習うべき点は意外にある。


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