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父とピストルと私のキャリア

皆さんこんにちは、ファンリーシュの志水です。
いよいよGWが始まりましたね。昨年同様、近場や自宅で家族とのんびり過ごすという方が多いのではないでしょうか。

さて今日のテーマはこちら#理想の家族について。

先日久しぶりに父親の夢を見ました。以前のNoteで母について書いたので自分のことも書いてほしいと思ったのでしょうか。

私が思い出す父親は(以下ケンちゃん。弟とはこっそりそう呼んでいました)『巨人の星』の主人公である星飛雄馬の父である星一徹です。男子厨房に入らずの昭和の父。若い頃は相当やんちゃだったようです。曲がったことが嫌いで情に厚く人にだまされることもありました。社交的なのに家ではめったに笑わない、厳格な人で家では怖い存在でした。身体が強くなかったこともあってキャリアには恵まれませんでした。そのためうちは母が家計を支えていました。

小さいときはどこにでもついていっていましたが、中学生くらいから、私はケンちゃんと距離を置くようになりました。
保守的で九州男児的なケンちゃんの発言は私を苛つかせました。

「女に学歴は必要ない。早く結婚して子供を産んで家庭を支えるのが女の役割。それが一番の幸せ」

「結婚して家庭を持っても一生働き続けたい」と漠然と考えていた私は、彼の保守的な価値観に違和感を感じていました。

父娘の関係に決定的な亀裂が入ったのは高校卒業時の時です。
大学進学に反対だったケンちゃんは、地元の役所に勤める知人にお願いして面談を依頼していました。(いわゆるコネです)当日、無断ですっぽかした私が帰宅するとケンちゃんは激昂して話も聞いてくれませんでした。
やりたいことを理解してもらえないのはなぜなのか。これは自分で道をつくるしかない。そう考えた私は寝る間も惜しんで勉強しました。そのかいもあり、無事に進学できました。

大学からはさらに関係が悪化し、会話はほとんでありません。就職で上京してからはたまに帰省しても言葉を交わすことはなく、ぎこちないままでした。
価値観を押し付ける人は親であっても受け入れたくない。経験を積んで一人前の社会人になって見返してやる。女性でも仕事ができるんだなとケンちゃんに言わせてやる。父親に認めてもらうことが私のモチベーションの源泉だったのかもしれません。

父の病気で家族は再び一つに

2002年の2月半ば、母から電話がありました。
健康診断でケンちゃんの肺に影があることがわかり、再検査が必要だということでした。
そして数週間後、肺癌であることが判明しました。
それから1年間は、2週間ごとに福岡に帰る生活が始まりました。母、弟、私からなるチームケンちゃんは一丸となって一年に渡る闘病生活を支えました。

体調が悪化して抗がん剤が効かなくなったため、地元の病院に移ることになった時、私は最期をみとるために休職をして実家に戻る決断をしました。
用意していただいたベッドをケンちゃんの隣に並べ、たわいもない話をしながら静かな病院の夜を過ごしました。15年間の父娘の空白時間を埋めるように。このまま時間が止まればよいのにと思いました。

3月のある日、家族に見守られてケンちゃんは旅立ちました。意識が薄れていく中、「お父さん」と家族が呼びかけ「ご臨終です」と医師から告げられるドラマのワンシーン。その時、とても不思議なことが起こりました。息を引き取ったと思いきや、ケンちゃんは一瞬大きく目を開け声を絞り出したのです。
最後の言葉は私と弟に向けられたものでした。

「自慢の息子と娘やった、ありがとね」

ケンちゃんらしい、カッコいい最期でした。

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お葬式とケンちゃんの武勇伝

お通夜の席で衝撃のエピソードを母から聞かされました。私にとってもかなりショックなエピソードだったので恐らく読者の方も驚かれると思います。
とはいえ、このようなことは当時の筑豊ではそれほど珍しくなかったそうです。

私が小学生低学年のころです。
ある晩、家族で夕食を食べていたら、強面で怖そうな男性が父親に会いたいと訪問したきたそうです。その手に「ピストル」があるのを見た母は、慌ててケンちゃんにその事を伝えました。ケンちゃんは驚くこともなく冷静に母に告げました。

「裏から子供たちを連れて出て逃げなさい」

言われたとおりに母は私と弟を連れて自身の実家に戻りました。
しばらくしてから、何事もなかったような様子でケンちゃんは迎えに来たそうです。
どうやら数日前に繁華街で数人のチンピラさん(一人は仮出所中のリアルな半グレ)がもめていたのを見たケンちゃんが仲裁に入ったらしく、人前で恥をかかされたと仕返しにきたというオチでした。
訪ねてきた半グレ青年をケンちゃんは諭して帰したそうです。
数年後に、更生して出所した半グレ青年は家に挨拶に来たそうです。

カッコよかったんやねと弟は笑っていました。
冷静で動じないところ、人をあきらめないところはケンちゃんから譲りうけたようです。

翌日の葬儀には多くの方が来られました。
小さな街の葬儀場はいっぱいでした。
社長でもなく、会社の役員でもない普通の人、ケンちゃんの葬儀になぜこんなに??私は驚きました。
参列された方々が家族に温かい声をかけてくれます。ほとんどが職場で一緒に働いた方々でした。

「ケンちゃんにはいつも励まされたとよ」
「会社から不当な扱いをされた時に掛け合ってくれたんよ」
「仕事の紹介をしてもらって助かったばい」
「弱い人の味方で職場でリーダーって呼ばれとったばい」

私たち家族が知らないケンちゃんの姿でした。人事に近いことをやっていたのかもしれません。
人事の仕事についていたら私より活躍していたかも。そう思いました。

お嬢さんの話を嬉しそうにしていたとよ、そう教えてくれた年配の女性もいました。
「娘から見捨てられたけん、病気になっても帰ってこんやろう。そう思っとったけどちょくちょく帰って来てくれるんよ」

不器用だから伝えることができなかったケンちゃん。その気持ちを知り、優しい気持ちになりました。

ビジョンを持とうとか、未来を考えようとか多くの人が言ってますが、一番大切な自分の終わり方について考えている人はどれ程いるのだろう?どう死にたいのかはどう生きたいのかに繋がるのではないだろうか。それ以来、自分の終わり方、そして生き方について考えるようになりました。

名誉や役職にこだわることなく生きてきたケンちゃん。困った人に向き合い、一緒に悩み、困りごとの解決のために力を貸してきたのかな。いつか私がこの世を去るときにも、私の家族が参列した方から感謝してもらえるような生き方をしたい。自分のキャリアを通じて困りごとを解決するお手伝いをしたい。
ケンちゃんの最期を看取ってから自分の最期を想いつつ毎日を生きるようになりました。

#理想の家族じゃなくてもいい

さて、皆さんにとって理想の家族とはどんなものででしょうか?

父親はサラリーマンで定年まで勤める
母親は料理も家事もこなしていつも笑顔
子供たちは有名大学に入って大企業に入社
郊外に一軒家を購入して犬を飼う

これが理想の家族として浮かんでいたら大変です。早急に昭和の価値観を令和バージョンにアップデートしたほうが良いと思います。
同性同士で子供を持つカップル、ひとり親、事実婚、複数回結婚した人、週末しか会わない夫婦、養子を育てる家庭、家族を持たず友達と住んでいる・・・。
働き方や生き方が多様になってきているように家族の在り方もどんどん進化しています。

#理想の家族という言葉には「理想だと周囲から思われたい」願望が感じられますよね。
「理想」と「実態」のギャップに苦しみて生きづらい人々を生んでしまう可能性もあります。
実際、私は子供の頃、「理想からかけ離れた」家族と自分とのギャップが辛く、長い間生きづらさを感じていました。理想の家族という幻想に囚われず、自由でありたいものです。

これからは理想の家族ではなく、ニューファミリーが支持されるのではないでしょうか。

ニューファミリーとは働き暮らす空間や衣食住を共有し、自分のやりたいことやありたい姿を追求するという目的を持ったチーム=共同体。血のつながりや法律は問わず、お互いの価値観を認めその存在に感謝する

目的は同じでも個々の価値観が異なるのだから家族にはさまざまなことが起こります。
共に喜び、悲しみ、苦しみ、怒り、ぶつかり、時には憎しみさえ生まれる。それでも最後には水に流して赦しあう。見返りを求めない無償の愛がある場所。それが私の「ありたい家族像」です。

さて皆さんはいかがでしょうか?

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