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カラーはコンセプトの構成要素か?ーミラノデザインウィークに関するメモ 1

「コンセプト」という言葉はよく使われますが、コンセプトが指すイメージには結構、文化差があるものです。

のっけからやや難しいことを言えば、装飾的であることが「単なる外面」のことなのか、装飾こそがコトのエッセンスに投影される「レトリック」なのか。例えば、カラーはコンセプトに付随的なものなのか、カラーは身体感覚の一部にあり、コンセプトそのものを構成するものなのか、というのが今回の記事のテーマです。

4月6-21日の6日間に渡り実施されたミラノサローネ国際家具見本市とデザインウィークが終了し、期間中に受けたさまざまなインプットをもとに考えたことをメモしていきますが、初回は上記のカラーについてです。

ちょっととっつきにくい話題と思ったら、メモの2回目を待ってください。

今年のフオーリサローネのテーマは”Materia Natura”

サローネと並行して市内でおよそ千の数の展示やイベントが開催され、これをフオーリサローネと称します。市内のいくつかの地区(ブレラやトルトーナなど)がそれぞれに主導し、それをまとめてフオーリサローネとして推進するわけです(加えて、フオーリサローネとサローネを総括してミラノデザインウィークとの名称で括られます)。

そのフオーリサローネのテーマが今年は"Materia Natura”でした。この訳を「物質と自然」とするとやや距離があり、物理的な何らかのもの、人工物ではないすべて、といったところでしょうか。

テーマは今年2月に発表されたので、フオーリサローネの参加者たちがこのテーマに沿って企画を考えたというより、フオーリサローネのまとめ役や前週に開催されたアートフェアMiartのクリエイティブディレクターなどが議論したものです。したがって、ぼくは「こういう観点から展示を見たらどうか?」という提案として受け取りました。

とは言うものの、当初、それはそれとして・・・と考えていました。しかし、途中から、このテーマで解釈すると色々見えてくるものがあると感じるようになります。

特に、このmateriaとnaturaを介する要素としてカラーを位置付けると気づくことが増えてきます。

Googleの展示テーマはMaking Sense of Color

出展者の間でカラーそのものに関心が高まっている印象があります。そのなかでグーグルがカラーをテーマにしているのですから、これを見ないわけにはいかない。2019年が”Space for Being”、2023年が”Shaped by Water" と経たうえでのカラーです。

冒頭の写真は音とカラーの関係を探ります。こんな音にはこんなカラー、こんなカラーにはこんな音、そういう連想が人にはあると思いますが、このリンクをこのセッションでは経験できます。

それから手を通じた触覚がカラーをどう捉えるか、あるいは嗅覚はどうなのか、味覚はどうなのか?と五感とカラーの間を探ります。そして最終的にグーグルのカラー戦略の考え方が浮き上がってきます。

五感と色の関係を探る

この展示は、この方法の是非を云々するよりも、多角的にカラーにアプローチする姿勢自体に意味があります。何よりも、「今年のカラーはこれ」「このカラーを好きな人の性格はこれ」といったトレンドや心理分析の次元とは異なるところでカラーが語られる現実に注目すると良いでしょう。

カラーとはコンセプトの重要な構成要素

そうすると、ひとつのことに気が付きます。

かつて「カラフルである」という表現は「表層で工夫をしている」と、ともすれば評価されがちだった。だが、深層に関わるところで実はカラーが使われていた、ということに気がつくのです。

トリエンナーレ美術館で開催されているアレッサンドロ・メンディーニ(1931-2019)のカラフルな作品の数々を眺めていると、カラフルであることが人の自然な姿であることを教えてくれます。人の心にある起伏や頭に思い浮かぶ構想を無理なく表現していくと自ずとカラフルになるーーーその現実に向き合うのです。

トリエンナーレ美術館でのアレッサンドロ・メンディーニの回顧展

30年ほど前、バロック様式の建物が立ち並ぶトリノに住んでいた頃、最初は重厚さや過剰な装飾にウンザリしました。しかし、半年ほど毎日そのなかで生活しているうちに「バロック様式の装飾過剰とは、外面的な飾りたてではなく、内面から湧き上がってくるものの抑えがたい感情の発露である」と自分なりの解釈ができたら、街をとても軽快に歩けるようになったことがあります。

10数年前でしょうか、ミラノの王宮で歴史的に古い家具と20世紀の家具を対比させてみせる展覧会がありました。その際、バロック様式の家具と1980年代に世界のデザインに大きな影響を与えたメンフィスの家具が並んでいました。

メンフィスも過剰表現と評されるシーンが多いデザインですが、「カラフルは過剰ではなく自然体である」とのバロックに対する解釈の系譜で読み解くと分かってくることがあります。

今年のデザインウィークは、これを確認させてくれたのです。サローネ会場のポルトロノーヴァやグフラムのブースでも同様です。

メンフィスのカラフルさも自然な表現
サローネ会場のポルトロノーヴァ
サローネ会場のグフラム

当たり前ですが、フオーリサローネで見えることと、サローネで見えることの間には共通性があります。

カラフルを「遊び」「明るさ」という固定概念で見すぎない

カラフルさを語ると、「遊びって大切ですよね」「陽気さはラテン系の特徴」と返してくる人がいます。それは半ば正解ですが、それがすべてでもありません。

確かにヨーロッパでもアルプス山脈の北と南ではカラーに関する感度が違います。南側の地域でカラフルさを得意とする、またはカラフルさが身についているのが一般的認識です。

例えば、そのアルプス以南のイタリアでルネサンス期、ヴェネツィア派からカラフルであるのを学んだのがギリシャから来たエル・グレコです。彼はスペインに渡り、特徴的な色使いで評価を獲得します。

左の絵画がエル・グレコの作品。右はヴェネツィア派の作品。

しかしながら、地域を問わず、どこかの場面にカラフルさが出てくるものです。日本であれば祭りにそのような表現が見られるでしょう。

それでも、日本ではどちらかというとモノトーン的な世界が好まれていると(信じていると)され、北ヨーロッパも明るいカラフルとは程遠いと思われやすい。

ただ、それはカラフルさへの趣向の問題ではなく、コンセプトにおけるカラーのポジションーコンセプトの構成要素か構成外要素かーの取り方が表出しているのではないか?という問いが、ミラノデザインウィークの1回目のメモです。


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