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デジタル化が促す観光の行方

東京都心にできた新しい「何とかヒルズ」(容易に想像はつく)という地下鉄の駅を「ハリボテで嘘くさい」と驚く日経夕刊プロムナードの記事を目にした。この感覚はよく分かる。

八月にシンガポールに旅行したが、東京都23区と同規模の都市国家にひしめく観光地はどこも強くソーシャルメディアを意識しているようで、確かに色彩鮮やかで「映える」のだが、その代償として、後々まで強く感情に訴えかけたり、もっと知りたいと思わせたりする要素が殺されてしまう。悪く言えば「ハリボテ」感が否めない。

コロナ後、この現象は加速しているようだ。例えば、コロナ前にふらりと立ち寄った目立たない美術館で、私はプラナカンというシンガポールに土着した中華系民族の歴史と文化に触れ、興味を持っていたのだが、今回訪れたシンガポールでは、プラナカンがすっかり観光資源としてメジャー化していることに驚かされた。この美術館自体、改装後に展示がデジタル化され、個人的にはかえって使いづらい印象を受けたことは少し残念だったうえ、空港の一角にプラナカンのパステルカラーで街並みが再現され、「映える」演出として消費されている。プラナカンに注目が集まることは別に悪いことではないが、写真だけ撮って分かったような気になっても、本当の文化理解には至らない。

このように即席に消費可能な分かりやすさを打ち出す観光の方向性は、観光客の一人ひとりが写真やビデオを伴って旅の印象を即時発信することを可能にしたデジタルコミュニケーションに裏打ちされる。表層的な観光のマス消費は、不可逆な流れだろう。

その一方で、デジタル化はすべて「ハリボテ」を奨励するとは限らないことに希望を持つことができる。情報アクセスが格段に広がったことで、ニッチな領域に関心を持つひとたちが、おおざっぱに「観光」とくくれないような興味をもって、彼ら独自の聖地を調べ、訪れるような旅が可能になるからだ。

マイクロでニッチな領域においては、日本も豊富なネタを用意している。例えば伝統工芸の世界は地方色が濃く、ひとつひとつが奥深い。このようなニッチに興味を持つ世界のファンが行先を日本の地方と定めてくれれば、インバウンドの奥行きが増し、分散化にもつながる。

日本が観光立国を目指すとき、シンガポール型の分かりやすい「映え」を意識するのはある程度仕方ないかもしれないが、並行してニッチかつマイクロな「観光」を盛り立てる努力も必要だ。日本人にも海外のファンにも気が付いてもらえるような発信力が不可欠で、そのためにはデジタルリテラシーや若い世代を呼び戻し、新しく呼び込む力のある地方創生が求められる。時間がかかる作業だが、プロムナード記事の引用をすれば、「人の心を本当に躍らせる面白さ」は、決してハリボテからは生まれない。

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