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海外に住むことに気負わない。

海外に「永住する日本人」が増えているとの記事を読んで2つのことを思いました。私的なことが多いので、読んでみたいと思う方がどれだけいるのか分かりませんが・・・。

1990年からイタリアに住む身としては、自分自身がヨーロッパに棲み処を選んだ動機がひとつ。二つ目がミラノで生まれ育った息子(現在22歳)が、18歳を迎えたとき、自らの決断でイタリア国籍を選び、ほぼすべて自分1人で手続きをしたときのこと。

まず、前提を話すと、ぼく自身、日本の他人が海外に住む動機に関心がありません。正確にいえば、ぼくがヨーロッパに住む前には関心がありました。他人がどういう動機で住み始め、どのような心情で生活をしているのか、それらを知りたかったです。

しかし、そういう関心は、自分がイタリアに住み始めて1年を終える前にきれいさっぱりなくなっていました。他人の動機など、どうでもよくなったのです。

はじめの頃、長くヨーロッパに住む日本の方にこうした関心を話したとき、いちように「ふ~ん」という反応だった理由が時間をへてわかりました。現在、ぼくも他人の動機を聞けば「ふ~ん」という表情をしているのでしょう。何かのプロジェクトの動機には関心がもてても、どこかに長く住む動機などその間にさまざまに変貌するのを知っているから関心が持てないのでしょう。

だから、ここで書くぼくの動機も、日本に住んでいる方には「気になる」とおっしゃっていただけることもありますが、基本、「ふ~ん」であろうと思っています。

ぼくがヨーロッパを選んだのは、新しいコンセプトをつくること、あるいは新しいコンセプトをつくる現場にいることに生きがいを感じたからです。それは30年以上を経ている今もそうで、最近やっている新ラグジュアリー大文字のデザインと小文字のデザインを繋ぐ、といったプロジェクトも、その枠組みに入ります。こうした活動をするにあたり、ヨーロッパの文化土壌との相性が良いのですね。

というわけで、海外に「永住する日本人」の増減よりも、新しい考え方をする人が、国籍を問わずに絶対的に増えることに関心があります。それで、そういうことに関心のある人たちと多く繋がってきたし、これからもたくさん知り合いたいと思っています。

2つ目、息子のことです。ぼくの奥さんは日本人なので、息子もミラノの病院で生まれても日本人の国籍を取得しました。ただ、ぼくたち夫婦は〇〇人のアイデンティティという概念の固定化は好まないこともあり、しかも、そういう固定化しないことで明るく生きている人たちをたくさん知っていたので、息子の文化アイデンティティを意識した教育はほぼやりませんでした。

幼稚園のとき、1か月だけ日本の幼稚園に体験入園させたら、本人が「もう二度とああいう軍隊みたいのは嫌!」ときっぱり言ったので、それは確信となったのですね。それ以降、イタリアの公立の学校教育をうけてきました(今は写真家かアートディレクターのどちらになるのか分かりませんが、その仕事を優先的に推し進めるために国立大学を休学しています。今年から自営業者としての登録もしました)。

あえて子どもを育てるに父親として意識してやったことといえば、高校生のときに、ソーシャルイノベーションやスタートアップの人たちが多く集まるコワーキングの場に2年間インターンにやらせたことです。これから仕事をしていくにあたり、どういう顔をした人がどういう言葉を使ってその世界で生きているか知っている方がサバイバルできると思いました。

もう一つは、高校生のとき、3年間連続して夏、日本に連れていったことです。1か月くらい、ぼくが日本で行う数々の講演や仕事のミーティングの場に連れて行きました(そういえば、このCOMEMOの連載をはじめるときも、大手町の日経新聞本社にも連れて行ったのでした)。そして、懇親会の場などでは面白がっていただける方が息子の相手などをしてくださいました。

そうして18歳に達した時、前述したように、イタリア国籍を選択しました。その理由は、EU市民であればEU域内のどこでも自由に働く場所を選べるからです。幼稚園の忘れたい経験があるにせよ、日本の文化が嫌いなわけでもなく、興味もあるのですが、ヨーロッパで何かをするのが肌にあっていると思っているようです(自分の国のアイデンティティは?と問うたのは、中学生の1年間ほどでした。それも深刻な話は一切なしです)。

さて、結論や教訓などない話ですが、海外に住むことにあまり気負わない空気をつくっていくのは大切かもね、と思います。

外国に住んでいてみるのは、長く住み、その土地とその人々を賞賛していた人たちが、いざ母国に住まいを戻すことになったとき、その異国の悪口を言うパターンが多い、という現実です。「私が、この国を去るのは、私の実力不足ではなく、この国が悪いのだ」と。

ミクロに生きていたのに、マクロへの批判で終わる。自分の立場の正当化と弁解に懸命。それはやはり、醜いというか、みっともない。結局において異文化交流が歪なかたちで残ります。

これを回避するためにも、海外に住むこと自体に気負い過ぎないことです。

冒頭の写真©Ken Anzai



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