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得意とするローカリゼーションが足を引っ張る時代になってきた?

先月、日本の大学院の社会人向け講座でレクチャーしたとき、参加者の1人のコメントに「そうか、こうきたか」と思ったことがあります。これまでローカリゼーションを得意としてきた日本の文化的特徴が、まったく逆に足をひっぱる理由のひとつになっているということに、ぼくはあらためて気づいたのです。

20世紀末からのローカリゼーション

ぼくはレクチャーで異文化理解の一例として、2016年4月にミラノのトリエンナーレ美術館で開催された展覧会「Neo Preistoria(新先史時代)」で感じたことを話しました。

2016年4月にミラノのトリエンナーレ美術館で開催された展覧会「Neo Preistoria(新先史時代)

イタリアのデザイン研究者、(惜しくも、先月亡くなった)アンドレア・ブランジと日本のデザイナー、原研哉の2人が100の動詞を選び、それぞれに合うモノを展示しました。言葉はイタリア語、英語、日本語で表示されています。

それらを見ていると、「殺す」「磨く」「切る」といった古い時代の言葉に関するモノについては、装飾や形状が違うけれど、人類は文化圏をこえて同じ経験を積んできたことを実感させてくれます。しかしながら、前世紀末から今世紀にいたる時期では、逆に日本語の不利が目立ちます。コンピューター分野という、よりユニバーサルな領域が主流になればなるほど、日本語はローカライズされた言葉になります。

Expandという動詞は「拡張する」です。漢語と「する」が組み合わせられ、これがローカライズにはとても便利です。だから、レクチャーの際、参加者からの「日本語はローカライズしやすいから、国際化の障壁が低い」との意見に、「それは要注意だと思う」とぼくはコメントしました。国際化の障壁を逆に高くしているのではないか?と。

だって、「〇〇する」は動詞として弱い。言ってみれば間接的であり、「切る」のように行為に直結する動詞ではない。輸入する国際化には良いが、輸出する国際化には弱い、ということです。

韓国の文化発信への高評価をみて思うこと

ローカリゼーションの秀逸さや得意さが、日本の「雑種文化」(by 加藤周一)を成り立たせてきたことは定説になっています。

一方、21世紀に入ってから、韓国の文化発信がよく話題になります。音楽、ドラマ、ファッションとネタは一つにとどまりません。

この現象を見ながら、ぼくが確信的に思っていることがあります。この30年以上、欧州のさまざまな分野の会社と仕事をしてきましたが、彼らからは共通して「日本の取引先からは、こまごまとローカリゼーションを要求されるが、韓国の輸入元はそうしたリクエストが少ないのでやりやすい」と言われてきました。この韓国と日本のローカライズへの感度の違いが、発信とのシーンにおいては韓国を有利に導くのです。

それは、どういうことでしょう?

かつて、日本の市場で要求される項目として製品品質への拘りがあげられ、それが他国市場を開拓する際のベンチマークになる、と持ち上げられた時期があります。だが、審美性に関わる点については、日本の文化として肯定されても、日本テイストをそのままローカライズなしに輸出すると「揉める」のが普通です。「日本の人の好みは、他国へ転用しずらい」と。

もちろん、日本テイストの海外市場が拡大はしていますが、韓国テイストほどの存在感も示していないし、影響も及ぼしていない。これをどう見るか?です。

ローカリゼーション再考のタイミング

ぼくは10数年前からローカリゼーションの重要性を盛んに説いてきました。日本市場へのローカリゼーションではなく、海外市場にむけたローカリゼーションです。日経ビジネスオンラインに連載した記事をまとめ12年前に出版した本は、さまざまなアングルやレイヤーからローカリゼーションについて取材して書いたものです。

この本では大きな規模の日本の会社の製品を事例にとりあげました(ヤマハ音楽教室や公文の教育方法といったソフトもあります)。「メイド・イン・ジャパン」の旗印だった家電製品のシェアは下がりつつありましたが、もう一度上昇気流にのせられるかもとの期待が、まだもてた時期です。

ぼくも「日本の会社はユニバーサルとローカルのレイヤーの区別をつけるのが苦手で、それがグローバル化を阻んでいる」と何度も語りました。

が、それから状況は大きく変化しました。

10数年を経て何が変化したかといえば、直接消費者に届ける商品は機械であるよりも、食やサイズの小さなモノ、サービスを外国人に売りたいとの(あるいは、売れるはずと思う)需要が増しました。外国人に売りたいというのは、輸出だけでなく、外国から日本に来た人も対象として考えることが多くなった、という状況を示しています。

製品品質がどこでも当たり前になった今、テイスト的な部分、つまりは審美性の部分が実に微妙なところにあります。インバウンドを盛り上げようとする人たちは、その審美性の部分を拡大解釈する傾向にあり、海外市場にモノやサービスを売る人はその部分を理性的に捉えようとします。

後者は場合によっては分析的に過ぎ、自らの首を絞めることになります。日本のテイストを好む層の分析をすることで、ステレオタイプをつくってしまうのです。

2週間くらい前の以下の記事は、このようなトレンドのなかで「発信」することを何よりも優先するのが良いと思い、書いたものです。

国内向けローカリゼーションは「分かった気」を促進した

前述のように、長期間、文化受信を、つまりは国内向けローカリゼーションにエネルギーとお金を注ぎ込んできたため、日本の外のそれなりのレベルの情報や知識を日本語で享受する習慣が定着しています。

ひらがなの言葉に置き換えられたものだけでなく、漢語で、カタカナで、外の知識を取り込むことが極めて自然であり、それらを「分かるシステム」が十分に作動してきた、というわけです。ローカリゼーションのフル機能ぶりが発揮されたのです。

しかしながら、機械のスペックを伝えるのとは異なるコンテンツを発信するのが重要なタイミングが到来した。その時、これまでの得意技が障壁になる。

なぜかと言えば、日本の文脈に落とし込んだ概念や言葉は、そのまま国外では通用しないからです。しかも、何が通用せず、何が通用するけど誤解されやすく、何が幸運にもそのまま通じるかは、発信してみないと不明です。和製英語と言われるものの限界とややこしさを想像すれば、理解していただけるでしょう。

即ち、発信してみて「これは分かったと思っていたが、分かった気になっていたに過ぎない」と認識できるわけです。輸入向けローカライズに熱心でなければ、分かった気になる契機自体がそもそもが少ないので、発信時にモグラたたきのような苦労も少ないはずなのです。その恩恵を受けているのが韓国の文化発信ではないか、と想像しています。

冒頭の写真©Ken Anzai



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