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肩書きを複数持つことにより、肩書きから解放されることができる、かもしれない。

今回のCOMEMOのお題は、なかなかに味わい深いな、と感じました。

「肩書を複数持った方が良いか」という問いは「複業した方が良いか」という問いとは微妙に違います。

「複業」の方についての私の考え方は、以前の記事に記したように、業と業の間で考え方や仕組みの援用、昇華が起きることにより、全ての業の生産性が上がることが期待できるので、「やらなければもったいない」というものです。

では、「肩書き」の方はどうでしょうか?

人が自己紹介したり、誰かに紹介されたりするときは、名前の接頭語として、所属する企業やその中でのポジションがつくことが非常に多いです。

以下の記事にも書いたように、人には勤め先以外にも、性格、趣味、信念や哲学、家族、住まい、友人関係など多種多様な特徴があり、それらの総和が個人を形成しています。

社名やポジション名というのは、その中のほんの一部でしかないにもかかわらず、紹介の中でこれほど多用されるのは、紹介というのがビジネスの文脈でなされることが多かったり、その人の社会的な影響力を表現するために、最も大きな因子であろう所属企業を選択的に用いたりする、ということなのでしょう。

あるいは所属している企業側が持っているイメージ・属性・事実を紹介対象の個人の個性として投影させたい、ということもあるかもしれません。Googleに勤めているなら優秀なんだろう、とか、元P&Gなのであれば、マーケティングの力があるのだろう、とか。

この記事の中で私は、肩書きで紹介されることを好まない、と記しましたが、こう考えてみると、かくいう私も初対面の人と会う時は、その肩書きを起点にその人の理解を始めることが多いということに気づきます。

でもこれは、いうまでもなく、誰の紹介にでも当てはまることではありません。

例えば筒井康隆さんが自己紹介するとき、「作家の」「時をかける少女を書いた」「SFの」といった接頭語は必要ないと思います。筒井康隆さんは知名度が高い実績があり、個人としても十分に著名だからです。

さらに考えてみると、筒井康隆さんに接頭語をつける、ということは、筒井さんが持っているスケールや世界を矮小化しかねない、とも思われます。筒井さんの活躍の幅は、作家のみならず演技者としての一面もありますし、「SF」「ドタバタ」のようなかつての作風を表す形容も、今となっては作品世界のごく一部でしかありません。

つまり、筒井康隆さんを紹介するときには、「筒井康隆さんです」としか言いようがなく、それは筒井さんがユニークで卓越した業績を重ねてきたことにより、それらをまとめた類似の概念やカテゴリーが存在しないことを意味しています。

筒井さんを「筒井さん」としか言えないことは、彼が唯一無二の存在であることの証左である、ということですね。

私は、人が複数の肩書きを持つと、これと相似形のことが起きるのではないか、と思います。つまり、

肩書きが1つの時は、「A社でBを担当している」。

2つになると「A社とB社で仕事をしている」。

3つ以上になると、だんだん1つ1つの企業のイメージが、その人のイメージを代表することに無理が出てきて、個人名で呼ぶことがフィットするようになってくる。

という次第です。

これは換言すれば、複業により肩書きを増やしていくことにより、特定の肩書きに拘束されることのない、他ならぬあなた自身、個人によるアイデンティティが形成できることになる、ということ。

この意味で、私のように「肩書きで紹介されることを好まない」向きには、肩書きを複数持った方がいい、というのが、本日のお題に対する私の答えです。

最後に、私は勝手にこのお題(「肩書きを複数持つ必要があるか」)を、勝手に「肩書きを複数持った方が良いか」翻訳しました。「必要があるか」という問いに対しては、「肩書きを複数持たなければならない」ということは勿論なく、本人の好き嫌いや価値観に応じて決めれば良い、と申し添えておきます。


読者の皆さんは、どの様にお考えですか?

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