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オルタナティブはステロタイプを否定するのではなく、むしろその自由を解放する

お疲れさまです。メタバースクリエイターズ若宮です。

今日はちょっと「ステロタイプとオルタナティブ」ということについて書きたいと思います。


ステロタイプな表象のなにが問題か?

先日、Voicyへのコメントで教えていただいて知ったのですが、いま、プリキュアに男の子のプリキュアも登場しているそうですね。


プリキュアが固定観念への囚われを脱するチャレンジをしているのは知っていたのですが、「キュアウイング」という男の子のプリキュアや成人(18歳)のプリキュア「キュアバタフライ」まで登場している、と。なんてダイバーシティ。

「女の子の変身ヒーロー」であったプリキュアに男の子が登場したことには賛否もあるようですが、固定観念に囚われない新たな表象を取り入れていくことは個人的には素晴らしいと思います。

ジェンダーをはじめ、多くのステロタイプな表象があります。

例えば、政治家のイラストを描くとしたら、多くの人が白髪のスーツの男性を描くでしょう。また子育てについての記事などでは、家事をする姿は女性で、男性が朝「いってきます」と仕事にでかける、みたいなイラストをよくみます。

もちろん、そういう家庭も実際あるでしょうし、今の日本ではまだこうしたジェンダーでの役割の偏りがあるのも事実です。「男性が働き、女性が家事をする」方が大多数なのであれば、一般論の代表としてそのような表象をすることにも一定の合理性があるように思えます。


一方で、このように「典型的先入観」をそのままに表象することは偏見やバイアスを強化するところもあるため、あえてステロタイプを見直し、表象を変えていくべき、という言説もあります。


選択肢がない状態を変えるための「別の選択肢」

「一般的にはそういう方が多いんだから、表象として伝わりやすいイラストをして何がいけないのか?」という意見もあります。

また、「別に働く女性を否定しているわけではない。むしろ、家事をする女性を描くな、という方が専業主婦に対する差別だろう」というような反論もよくききます。

家事をする女性がいけないというのではなく、女性も男性も、それぞれの立場からの多様な生き方が選べるのが一番です。例えば、専業主婦や仕事に没頭する父親も選択肢の一つとして幸せなケースもたくさんあるでしょう。

それならなぜわざわざ表現を見直して行く必要があるのでしょう?


しかし僕自身は、画一的なステロタイプだけではなく、多様な表象があった方がいい、という意見に賛成です。

なぜかというと、ステロタイプは選択の自由度を持たないことがあるからです。

たとえば家事といえば女性、という一つの表象しかなければ、そこには選択肢がありません。そしてそのように他の選択肢がない時にステロタイプな表象を繰り返すと、経路依存や偏向をますます強めることになってしまいます。

女性が家事をすることも自由である。それはその通りです。しかしそれは他の選択肢があって始めて「自由」と言えることではないでしょうか?

Aという選択肢だけしかない場合、Aのルートを通ることは「自由」ではありません。それはむしろ制約です。そこにBやCという別のルートが出来て始めて自由に選択する余地ができ、そうしてはじめて「Aを選ぶのも自由」と言えるのではないでしょうか。

#kutoo やメイクが苦痛ではなく、楽しめるために

こう考えると、ステロタイプ(A)ではないオルタナティブなあり方(BやC)を提出することは、Aという選択をすることを否定したり邪魔するのではなく、むしろ自由にする、という風に僕には思えます。

少し前に #kutoo という運動がありました。

「女性はビジネスの場でハイヒールを履く」という慣習に対して、それって実は「苦痛」です、もっと服装を自由にしましょう、という運動です。

また、化粧品ブランドが「生きるために化粧する」キャンペーンを行い、(メッセージを誤解されて)物議を醸したこともありました。

「生きるために化粧って必要なの?男性や子供はしなくても生きているのに?」「社会全体で女性は『綺麗であれ』『化粧をしろ』『美しくないとだめ』という風潮があるのを後押ししているようで不快」「いくらマスク習慣で化粧品が売れないからって、女性は化粧をしないと社会的に死にますと脅してまで販売促進していいんですか」と違和感を吐き出す女性がネット上で続出。Twitterでは「#kaneboの新CMに抗議します」というハッシュタグまで作られ批判が相次いでいる。

https://asagei.biz/excerpt/18544

こうした現象も「選択の自由度」の問題の表れだと思います。

ハイヒールや化粧をファッションとして楽しんでいる人もいます。しかし一方で、それが自分たちの選択ではなく「外圧」として押し付けられるものになってしまうと、楽しめなくなってしまう

ステロタイプなあり方を選ぶことも、それ自体が悪いわけではありません。メイクをしたい人、ハイヒールを履きたい人もいて良い。でも、それは「別の選択肢」がなければ半ば「押し付けられたもの」になってしまう。

既存のステロタイプとはちがうオルタナティブ(別の選択肢)を提示することは、一見既存のあり方の否定や批判のようにも見えます。働く女性を描くことが「女性は働かないといけないのか!」とか、「苦痛」だというのは「好きでハイヒール履いてる人を否定している!」とか。

しかし先程述べたように、ステロタイプなAを選ぶ行為は、BやCがあるからこそ「自由」になれるのです。オルタナティブBやCはステロタイプAを否定するのではなく、選択肢を増やすことによってAを「押し付け」から解放し、「自由な選択」へと変化させるのではないでしょうか?


資生堂の「反資生堂スタイル」

先日、資生堂さんにお招きいただいて、掛川にある「資生堂資料館」に行ってきました。

大木館長の解説とともに資生堂の創業からの歩みを知ることができ、十代の頃「花椿」という資生堂の雑誌を青森で一生懸命読んでいた僕としてはもう垂涎の機会でした。

資生堂のプロダクトづくりや経営的なチャレンジ、文化にとても刺激を受けたのですが、中でも印象に残ったのが、「反資生堂スタイルの力学」です。

代表的なのが前田美波里さんを起用した1966年 資生堂ビューティケイク「太陽に愛されよう」ポスター。

これは時代的にも非常に先鋭的でしたが、その当時資生堂の中でもかなり異端的な表現でした。

「それまでの男性ディレクターは、色白のなんとなく翳りのある人形のような美人が、伏し目がちに佇んでいるというのが、頻繁に登場する男性好みの女性像だった。
どうしようもなくちがうんだな…。という思いでいらだつ毎日を送っていた。

それまで確立されていた資生堂のスタイルは「山名文夫」が代表的。

その真逆と言っていい表現です。資生堂さんのすごいのはこうした真っ向からの「反資生堂スタイル」を許容する、もしくはそれを歓迎するような懐の深さです。多くの企業、特に大企業では、これほど既存のブランドイメージやメッセージに反することは社内の反発でそもそも通らないか、もし世に出たとしても「イメージとちがう」と受け入れず、炎上してしまうかもしれません。

しかし資生堂の前衛的ともいえる表象はこの時始まった一時的なものではありません。1950年代の花椿会の冊子などをみても世の中より何歩も先を行く女性像や文化をずっと発信しつづけ、社会や文化を牽引してきたのです。その遺伝子があるからこそ、まったく逆をいくイメージすら「それも資生堂らしい」と受け入れることができてしまう。

むしろ自己批判ともいえる「反資生堂スタイル」的革新をつづけることで、女性たちの、人々の文化的自由を解放し続けてきたのが資生堂なのです。


メインストリームがオルタナティブを提示する

なにより、資生堂さんが本当にすごいと思うのは、この当時、すでに盤石のトップシェアのリーディングカンパニーであったということです。スタートアップやチャレンジャー的なポジションではなく、王者にこうした革新ができるのが本当にすごい。

王道ながらも、既存に囚われず、前衛的で革新的なアプローチでそれを乗り越え、新しい王道をつくりだしていく。それは亜流ではなく王道であり徹底して本物志向ですが、過去や今の本物にとどまらず、「未だ無いこれからの本物」を希求し続ける革新的王道。これこそがほんとうの本物のすごみでした。


ジェンダーダイバーシティをはじめ社会の変化においては、マジョリティや強者の側が(知ってか知らずか)既存の価値観を再生産し続け、変化を妨げていることが多い気もします。マイノリティの側が声を上げることでやっと気づく場合もあれば、声を上げても「受け取り拒否」されることすらあります。ぜひ資生堂のように、マジョリティとしてリーダー的な地位をもつ人たちこそ自らのオルタナティブを生む自己批判のモーメントを持って欲しい。既存の実績や地位にしがみつくのではなく、自らオルタナティブを示すリーダーがいたら、ほんとうにかっこいいですよね。


新しいオルタナティブは、過去や定石をただ否定するのではなく、選択肢を増やすことによってひとびとの選択の自由度を拡大し、社会の可能性を解放することなのですから。


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