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口惜しさを抱えて生きる。

あっという間に、ずいぶん前の出来事のようになってしまいましたけれど、オリンピックが終わりましたね。まず、このような状況下で、運営に携わられてきた方々(ボランティアの方々も含めて)の尽力に敬意を表したいと思います。当たり前のものが、当たり前のように進行していく。でもこれって、実はとてもすごいことだと思うのです。そのことは忘れずにいたいな、と。

さて、そんな中で行われた閉会式ですが、賛否両論いろいろありましたが、特にSNSでは酷評するようなコメントが多かったなという印象があります。日本はだめ、それに引き換えパリはカッコよかったなーと。

厳しい評価をしている人たちのコメントを見ていると、なんだか裏側に「ちくしょう、本当はこんなもんじゃないのに!」っていう思いがにじんでいるような気がするんですよね。パリとの比較にしたって、確かにかっこよかったけど、どうでしょう、リオの時の東京の予告のほうがよっぽどクリエイティビティがあふれているような気がしました。なのに、本番やそこに至るプロセスが・・・という感じでしょうか。

一つひとつの出来事について私は詳しいわけではないので特にコメントはできませんが、やっぱり開会式にせよ閉会式にせよ、ベストではなかったんでしょうね。そして、本当の日本のおもしろさや魅力を知っている人であればあるほど、こんなもんじゃないのに、と思っている。失われた30年といわれ後塵を拝してきた日本が、世界に対してもう一度面白さを発信する千載一遇のチャンスだった。それなのに、コロナの影響もあったし、いろんな不味さもあってそれを逃してしまった。

そしてこれが、既得権益とか組織のしがらみとか、そういうものによって才能が活かしきれないという、なんとなく身近にあるものと近い構造に見えてしまうから、口惜しさもひとしおなのかもしれません。

でも、いや、だからこそ、ここからなんだと思うのです。この口惜しさこそが、とても意味があることなんじゃないかな、と。

うまくできなかったこと、自分の実力が出せなかったこと、それを布団の中で、お風呂の中で、何がいけなかったんだろうか、と悶々と考えてみる。もしあの時、ああやっていたらどうなっていただろうと妄想する。次はこうやってみよう、あんなやり方もあるかな、と想像する。次のチャンスが来た時には、こんなもんじゃ済まさない。今に見ていろ。

そうやって、またここから磨いていけばいい。変えるべきことを少しずつでも変えていけばいい。

組織の都合とかいかんともしがたい事情によって、自分の力を存分に発揮できないことなんて、むしろ当たり前。だったら、7割しか発揮できない環境でも圧勝できるまでに、自分を高めればいい。悔しさを感じるからこそ鼓舞できる時があって、今は日本にとって、そういう時期なんじゃぁないでしょうか。

そんな風に思う、祭りのあとです。

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