見出し画像

会えない時代になぜ装う?と問う前に「装う」を(自分なりに)再定義する

この数年間、サステナビリティや社会的責任などの観点から、長すぎるサプライチェーンが議論の対象になってきました。グローバリゼーションは原産地を不透明にする方向を後押ししてきました。だが、今年に入ってからの「伏兵」は逆方向 ー短いサプライチェーンー へドライブしています。その一方で、政治的要因が加わり、ウィグル製の繊維を巡る次のような事態も進行しています。

現場の調査に力を入れて、かえってウイグル族の立場が一段と厳しくなるのを防ぐにはどうすればいいのか。いずれも倫理や政治、社会に関わる問題であり、企業は自分たちだけで解決するには荷が重すぎると感じている。
<中略>
監査の目が届かなくなった同自治区はサプライチェーンのブラックホールと化し、西側企業が現地のサプライヤーと取引を続けるのはほぼ不可能になっている

つまり、サプライチェーンを明確にする要望を政治サイドや消費者が出せば出すほど、そして生産者がこの点に自覚的になればなるほど自らの首がしまる、という何とも閉塞感漂う状況さえ生んでいるわけです。

このように世の中は普通には気がつかない矛盾だらけです。全部のことに胸を痛めていると自分の生活ができなくなるから、あることは見ないふりをするか、自分にはどうしようもないことだと諦め、自分の生きている生活のなかで何とかできることをしようと努めるわけです。そして、ここぞと自分が思う点では踏ん張り、あえて声をあげたり、あるいは何らかの行動に出たりします。それが社会問題やビジネスに対する日常生活上のセンスということになります。

さて、ここでガラリと話を変えます。というか、このコラムのテーマはこれから話す方です。未来面のお題「会えない時代になぜ装う」です。そうそう人に会えない環境下に装う必要があるのか?と思う人も少なくないのでしょう。でも、装うって何?とも思いますよね。

自分が満足することを追求する

「一流ホテルのスタッフは客の足元をみる」「オシャレの真髄はジャケットの裏地にある」というフレーズをよく聞きます。これらにヒヤリとしたりニヤリとするは、ディテールに気がつくことや自覚的であることがセンスの高さだからです。ここのセンスが、先に言及したことと違うのは、他人が気づかないであろうと気を抜きがちなところにこそ気を配る、という点です。声をあげてムーブメントにしたらちっともオシャレじゃない・・・分かる人には分かってもらえれば幸せです。

ところで、このパンデミック下、服が売れないとの話もまたよく聞きます。人にあまり会わないから新たに服を買うまでもない、と。ただ、すべてが同じく売れないというわけではなく、東京とミラノで確認したのですが、オーダーメイドのいわゆる高級スーツの売り上げは目立って落ちていないようです。仕事のため、社会の慣習に合わせるためにいやいやスーツを着ていた人は、わざわざ新しく仕立てたりしません。 

だが、スーツが服のスタイルとして好きな人、もしくは換気に問題のない空間、例えば、大型ヨットのデッキで仲間とワイワイやるためのジャケットを新調したい人、こうした人たちは相変わらず活発な購買活動を続けています。人に自分のセンスに気づいてもらう機会もあり、仮に気づいてもらえなくても、自分が満足であることに満足します。

即ち、何かに従わざるを得ないことが合意(スーツ=制服)であると考えていた人にとって、表現は微妙ですが、現在の状況はある種の解放感を伴っているわけです。他方、もともとが自分の意思(スーツ=自分のスタイル)で生きている人にとって、今さら解放感でもないだろう、ということになります。

気がつく(気がついてもらう)ディテールの変化

このパンデミックでもう一つ何が変化したように見えるかといえば、いわば気がつく(気がついてもらう)ディテールの変化ではないかと思います。ビデオミーティングで上半身だけに気を配り、下半身がいい加減という話はよく聞きますが、例え下半身にまで気を配っていても、それが足元にまで及ぶか?ということです。多分、スクリーンにアップされる胸元や顔のムダ毛に気を余計に注意するほどには、靴を気にしないでしょう。

しかし、「装う」対象というのは、何も身にまとうものだけではなく、周囲の環境も指します。これまでも、気持ちのよい会話をしたいとき、ビジネスチャンスを見いだしたとき、雰囲気のよいレストランで人と食事をしたりします。なぜ、ここでレストランの選択に気を遣うかといえば、食事の質だけでなく、スタッフや他の客の振る舞いで自分の想定するシーンが邪魔されないようにするためです。セルフサービスのカフェよりも良いホテルのティーラウンジで人と会った方が、無駄なハプニングが少ないです。言うまでもなく、プラスの相乗効果は考えます。 

ビデオミーティングはある程度、自分で環境をコントロールできる場合が多いです。自分の背景画面もその一つです。でもそれでコントロールした気になっている時に、犬や子どもが急に乱入してくるのです。

ぼくの友人が仕事のビデオミーティングをしている時、相手方の出かけていた家族の他のメンバーが予定より早く一斉に帰宅したそうです。リビングで話していたその人は、慌てることなく家族の1人1人を友人に画面越しに紹介してくれました。「今、仕事中だからあっちへ行ってくれ!」と言葉には出さずとも、眉間に皺寄せながらジェスチャーで「あっちへ!」と示せば画面のこちら側にも分かります。するとお互いに「申し訳ないな」と思ったりするものです。

よってそういう嫌な気にさせないよう、機転を利かせて自分の状況を一気にオープンにしてしまう。それがすごく相手の好感度をよびます。気がつく(気がついてもらう)ディテールとはこのことです。リアルでもバーチャルでも、コントロールできないハプニングが起きることを想定していないといけませんが、問題が起こることよりも、その時の対応にセンスを感じさせるものがあれば、この程度のことなどあまり気にする必要がありません。

要は、気を遣うべきディテールに変化はありますが、気を遣うという行為自体には何の違いもありません。これを変化といって重荷または楽しいと思うか、基本が変わらないからとさして重要視しないで自らの道をそのまま進むかです。

装いの定義と範囲は自分で決める

ビジネスのイノベーションや旧態依然たる社会システムへの変革の必要性を省みて、変化は善である、という考え方が強いです。その文脈の延長線として、このパンデミックを「好機」としてみることがポジティブな見方として一部で賛同されやすいムードがあります。それこそ5-10年後を先取りするのだとばかりに、これを好機とみないのは、鈍感な証拠である、と。それには多分に煽り傾向があると思いますが、何よりも優先すべきなのは、好機とみるかどうかではなく、視点が不足しているから全体像がつかめないのか、あることへの定義が合わないのか、この2つのタイプの議論のどちらを相手にしているかを認識することです。詳細は以下に書きました。

このポイントを踏まえないで「変わらなくては!」と、外圧依存症的焦燥心によって流される愚は避けたいです。「自分で、どう変えるか?」との動機は自分のものでないといけませんよね。

そのうえでお題に答えるに今まで書いたことをやや比喩的に使うなら、「好きな服を着てビデオミーティングに臨み、突如、子どもが入ってきたら、落ち着いて子どもを紹介する」のが望ましい装いになります。なぜ装う?のではなく、装うのは当たり前の環境設定。しかも、装いの定義と範囲は自分で決める。もっといえば、それらを自分のこととして取り込むということです。ここで、装う力は自分の環境を心地よくする力を指すことになります。

当然ですが、誰かさんの指南する「新時代のエチケットや服装術」などに聞く耳をもつ必要もありません。例えば、ジャケットの一番下のボタンは外すことになっていますが、服飾史に詳しい方によれば、「たままま、英国の偉い人が太っていてボタンをとめられなかったので、周囲の人が気を遣って一緒になってボタンを外したのがはじまり」というのですからね。ハプニングの集積があるスタイルをつくっているのです。

状況に対して受動的ではなく能動的に捉えるとは、繰り返しますが、「変化しなくては!」と、肩肘はって青筋たてて悲壮な決意をすることでもない。自分で方針と行動を決めれば、「環境のどこかの矛盾はそのまま飲み込み、あるロジックを自ら変えるしかない」と自ずと見えてきます。それも無理に好機だなんて義務的に思わなくても、意味があり楽しければにこやかに前進できるのです。

こうして冒頭のウイグルの話に戻ります。

クローズドになりがちな状況において、よりオープンになるべく知性を働かすセンスが、日常生活を送るにあたり大切な要素になります。見える部分でも、見えない部分でも、です。どんな状況でもセンスは磨くに限ります。

Photo by Ken Anzai

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?