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AIがシンギュラリティを迎える時代に人間は何をするのか

ちょうど、自分の人生を振り返る節目に差し掛かったこともあり、この先、自分はどんなことをしていこうかと改めて考えていた。

特に昨今、AIが人間の仕事の多くを肩代わりするのではないかと言われる、そんな時代に、果たしてこの先は自分は何をやったら良いのだろうか。記事でいう「AIプルーフ(耐AI性)」のある仕事とは何か。これはすでに手あかがついたテーマではあるが、改めて考えてみる。

単に自分の得意なことやこれまでやってきたことをベースに考えても、それがAIでもできることであるならば、わざわざ人間がそれをやる必要はなくなっていくし、雇用する側や仕事を発注する側にしても、人間という肉体や精神の面で必ずしも一定ではない存在に仕事を発注するよりは、故障しない限り、同じ働きを休みなく、ブレずに一貫して、有給も昇給も要求せずに働いてくれるAIに発注することになるであろうことは考えるまでもない。

では、そのような時代に人間でなければできないこと、とは何なのだろうか。

もちろん、今後AIの進化によって、以下に書くような内容もAIがカバーするようになるかもしれないので、あくまで現時点の私自身の考え、というよりは妄想に近い内容ではあるのだが、やはり人間のエモーショナルな部分、場合によっては狂気とか衝動のような、どちらかというとネガティブに見られる面が、少なくてもしばらくの間はAIがカバーできない領域になるのではないか。

例えば、ある1人の人間の人生を描くストーリー、といった小説やドラマがあるとして、それをAIが様々な過去の多くの人の物語を取り込んで1つのストーリーを作ることは十分にすでに可能になっている。ただそれが本当に1人の人間の人生として、人間が共感を持って心を揺り動かされるようなストーリーになるのだろうかというと、果たしてそれがどこまでできるのだろうかと思う。

小説やドラマではないが、すでにAIに絵を描かせることはできるものの、言ってみれば、どれもがAIが書いたらしい、整ってはいるのだが、どこかしら無味乾燥で深みがないものに見えてしまう。その意味で、整いすぎていないことによる本当らしさ、ある意味での確からしさ、あるいは人間味といったものは、今のところまだAIには十分再現できないことなのかもしれない。「肉体や精神の面で必ずしも一定ではない」「一貫しておらずブレがある」という、これまでであれば人間の短所と考えられたものをどう活かすか、という逆転の発想が必要なのかもしれない

まして、人間の狂気や必ずしもポジティブには受け取られない衝動といったものをどの程度AIが表現できるのか、あるいはそれをバックグラウンドとした爆発力的なものをAIが実現できるのかというのも、どうだろうかと思う。

狂気や衝動といったものはもちろん、それを表に出すことは憚られる。そうしたものを持つ人も、それを自分の奥底に沈めているものだと思う。しかし、そうしたものがある人を力強くドライブし、思いがけもしなかったポジティブで有益な結果を生むといったことは、過去の偉人の伝記などによっても明らかにされている。例えば、怒りといった衝動がバネになって、それを昇華する形でポジティブな社会の変化を促す、といったことがある。こうした衝動といったものをバネにしたアウトプットを、果たしてAIが生成することができるのか。

そうしたネガティブなものが、AIが取り込めるデータとして十分に蓄積されているのであれば、それは可能になっていくのかもしれないが、先に書いた通り表に出すことは憚られるものである以上、AIがそれを取り込んで行くことには限界があるのではないかと思う。

もしそうであるのなら、今後、自分が何をやるかと考えた時に、表立って語れるような理想や美しい未来像の実現といったものでももちろん構わないのだが、その裏にある口にするのが憚られるような狂気の部分だったり衝動の部分というものをどう活かしていけるのか。これまであまりそういう発想で将来を考えることが言われることはなかったように思うが、AIの時代には、そうすることが、少なくても当面の間、AIにとって代わられることが難しいジャンルになるのかもしれない。


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