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マジョリティとマイノリティを行き来する。「肩身の狭さ」のすゝめ

こんにちは。メタバースクリエイターズ若宮です。

昨年メタバースのスタートアップを立ち上げて、自分のキャリア感がまた変わってきたなあと思っています。そんな中、改めて感じているマジョリティとマイノリティの境界について今日は書きます。


マイノリティになって初めて気付くバリア

メタバースのスタートアップを立ち上げてから、また最近マジョリティやマイノリティの感覚がちょっと変わってきています。

よく、海外に留学をした時など自分がマイノリティになって気づくことがある、という話がありますが、メタバースもある意味では「別の国」なので、新しい国と日本の物理世界を行き来する中で感覚が変化しているのかもしれません。

僕はマジョリティは概して鈍感で、マイノリティの方が敏感だと思っています。というのも、社会は基本的にマジョリティに合わせて作られているからです。そしてマイノリティにとっては形がフィットしないことが多いので、社会の問題や障害に気付くのは基本的にマイノリティの方で、マジョリティはなかなか気づきづらい、という難しさがあります。


例えば自身の経験で言うと、子供が生まれてベビーカーを使ってはじめて、渋谷駅の乗り継ぎや移動がどれほど大変かを実感しました。渋谷は主要駅なのでバリアフリー化は勿論されているのですが、それでも実際にエレベーターを使おうとすると大きく迂回しないといけなかったり、いつも通っているルートが使えず困ったことが何度もあります。

エレベーターだけではなく、改札口で狭いゲートしかなくて三輪のベビーカーでは出られなかったり。迂回してたら時間が間に合わないので(乗換案内アプリの乗り継ぎ時間もマジョリティを基準につくられている)、子供を降ろしてバギーを持ち上げて改札を乗り越えたこともあります。


僕もそれまで気づかなかったように、マジョリティにとってはバリアがバリアに感じられないことが多く、マイノリティになることで初めて気づくバリアがたくさん存在します。

政治や経済の世界でもこれがけっこうな問題だと思っていて、マジョリティ側にいてパワーを持って生きていると、自分たちに合わせて社会が作られているので困ることが少ないわけです。するとマイノリティの困難さを理解しにくい。自分たちは困らないために透明化しているバリアが他の人に大きな障害になることを気づかないし、その想像力が失われてしまう


そういう意味でマジョリティとマイノリティのバランス感覚が大事というか、マイノリティへの想像力を失わないように、僕はある程度意識的にマジョリティとマイノリティの両方の視点を行き来するように心がけています。

マジョリティ/マイノリティは環境で変わる

「障害の社会モデル」という言葉があります。障害は個人にではなく社会の側にある、という考え方です。

いつも何も意識せずに通れていた改札がバギーでは通れない!となった瞬間、通り道であった改札はまさに「障害=バリア」のような排除の壁に変化しました。

このように、社会の障害は利用する人の状態によって可変です。


そして「障害の社会モデル」と同じく、マジョリティかマイノリティかということもその人自体の属性ではなく、環境と相関して変化する、相対的なものです。同じ人でも、ある場所ではマジョリティとなり、別の場所ではマイノリティになることもあります。

なので、「女性だから」「男性だから」と性別などの属性で決めつけるのも一面的であまり良くないと思っています。Twitterなどではジェンダーの話になると、同じことを発言しても女性アカウントだとみるとクソリプが飛んできたり、逆にアカウント名が男性というだけで「マジョリティ」と決めつけられて対立しているのを見ることがあります。しかしマジョリティかマイノリティかも可変なものです。

例えば、ビジネス界隈ではまだまだ男性の方がマジョリティです。マネージャーや新規事業、起業家というとさらにその比率は高まります。また昭和の時代の名残で一定、年齢が高いほうが有利です。そのため、僕はビジネス界隈ではある程度のパワーを持つマジョリティですし、大学の客員教授の中でも一定マジョリティでしょう。自分の能力だけでなく属性としてのマジョリティの恩恵を受けている部分があります。

一方で、スタートアップ界隈においては、50手前で起業、というのはちょっとしたマイノリティだったりします。スタートアップ業界では比較的若い起業家が多いので、「シニア起業」と呼ばれる感じで、(もちろん女性のスタートアップ起業家に比べればマジョリティですが)起業した年齢で集計すると結構マイナーかもしれません。
(ビジネス界隈では同年代の男性はすでに一定の地位を得ていたり既に上場やIPOを経験しており、起業家よりも投資家や支援者になっているケースの方が多い気がします)


ビジネス界隈では男性が多いですが、ダイバーシティのイベントなどでは女性がマジョリティで男性はマイノリティです。ただこの比率もここ2年ほどでだいぶ変わってきた感があり、とても良いことだと思っています。

実は、メタバースにいる時も僕はだいぶマイノリティです。というのもメタバースのユーザーは非常に若く、(日本のユーザーは10歳くらい年齢が高いですが)海外ユーザーは20代前半や10代の方がマジョリティです。

ただし、メタバースのよいところは、アバターでのコミュニケーションなので物理世界の属性がハードルになりづらい、というところです。相手がちがう国の15歳でも気づかずに仲良くなって一緒に遊ぶようになり、だいぶ経ってから年齢の話になり、「親よりも年上じゃん!」とびっくりされることもよくあります。また、メタバースではむしろ若い層の方が詳しかったりスキルが高いことも多いので、まだまだ若輩者、という感覚です。

いずれにせよ、このようにマジョリティやマイノリティというのは、コミュニティや環境によって相対的なものであり、可変であるということです。本来は可変なものであるのに属性でマジョリティ/マイノリティと決めつけることには偏見やラベリングの危険性がありますし、せっかく可変なのにそれを固定化してしまってはもったいないと思うんですよね。


「肩身の狭さ」も大事

人は状況によってマジョリティにもマイノリティにもなりえます。そして最初に書いたように、マジョリティとマイノリティでは世界の見え方が違います。

なので僕は意識的にマイノリティの立場を経験することが大切だと思っています。

ビジネスの場では中年男性である僕はマジョリティ側であり、ある程度のパワーも持っています。しかしそれは同時に「マジョリティの盲目」の罠に陥る危険性も孕んでいます。令和の今になってもしばしば「おじさん」が問題発言をしてしまうのはマイノリティ感覚の欠如によるものではないでしょうか。

そういう意味で、意識的に自分がマイノリティになる環境に身を置き、「肩身の狭さ」を感じる経験が大事だと思うのです。そうすることでマジョリティ/マイノリティを相対化して、想像力をもつことができます。

もしあなたが今年に入って一度も肩身が狭い思いをしたことが全くないとしたら、それはもしかすると「マジョリティの盲目」に陥る危険信号かもしれません。

凝り固まらず柔軟な価値観をもつために、マジョリティとマイノリティを行き来し、時に肩身が狭い経験をすることの重要性を改めて思っています。

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