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「難民」と「疫病」に挟撃される欧州

「最悪のタイミング」で「最悪の出来事」が発生
金融市場では新型コロナウィルスを巡る懸念に一喜一憂する時間帯が続いています。もはや事は中国や日本、韓国などアジアに収まらず、欧米を含み全世界的な感染拡大となっています。とりわけ欧州では元々芳しくなかった経済状況も重なって、今年も受難の年となりそうです。欧州委員会は当初抱いていた1~3月期を起点とするV字回復シナリオの危うさを認め、イタリアはもちろん、フランスまでもがリセッション(2四半期連続のマイナス成長)に陥る可能性を示唆しています。


しかし、そうした疫病と景気減速という問題に加えて、欧州にはもう1つの重大な事件が起きつつあります。それは難民問題です。2月29日、トルコのエルドアン大統領は同国内に滞在する400万人のシリア難民に関し、EUへの「門を開いた」と言明し、難民が再度EUへ大挙する展開を容認する構えを見せました。EUにとって「最悪の出来事」が未知の疫病が蔓延するという「最悪のタイミング」で起きようとしています

欧州難民危機の経緯
そもそもの経緯から解説する必要があるでしょう。よく知られている通り、2015年9月、メルケル独政権が突如下した移民・難民無制限受け入れ政策によってEUは大混乱に陥りました。俗に、欧州難民危機と呼ばれるものです。しかし、そうしたメルケル政権の決断以前から、EUを目指す移民はドイツを目的地とする者が多数存在しました。人権が保護され、各種社会保障もあって、経済が豊かで雇用機会のある国に人気が集まるのは当然でしょう。そうした中東からの移民は陸路でギリシャから旧ユーゴスラビア(マケドニアやセルビア、いずれも非EU加盟国)を通過し、ハンガリーおよびオーストリアを通じてドイツ入りを目指す通称「バルカンルート」を使用します。ここで最初に通過するEU加盟国であるギリシャで難民申請を行い、ギリシャ国内で承認を待つというのが規則でした。


こうした移民・難民に係る規則をダブリン規則と呼びます。同規則では「最初に入国したEU加盟国で難民申請を行うこと」が定めています。その上で「他の加盟国で申請すること」も「他の加盟国に移動すること」も禁止されており、しかも申請はEU域内で1度しか許されていません。ゆえに、本来はバルカンルート由来の移民はトルコからギリシャに入った段階でその先には進めないルールです。しかし、困窮する内政状態に加え、移民達の目線の先にはドイツがあったのでギリシャを素通りするという事態が起きていました。こうなると「最初に入国したEU加盟国」はハンガリーとなります。

元より右派志向の非常に強いオルバン政権は移民・難民に対して厳格で現実的な対応を取っています。具体的には国境に鉄条網の壁を敷設し、警官隊が子供や赤ん坊を含む移民・難民に向かって催涙ガスや放水銃を使用したことが世界的にも大きく報じられました。また、既にハンガリーに入っている移民・難民の中にはオーストリアへ徒歩で向かいドイツを目指す者も相当数存在しましたので、中継地点となるオーストリアもこの展開に不満を抱く状況がありました。2015年9月5日、メルケル首相がハンガリーに滞在する移民・難民に関し、希望する者は全員受け入れるという仰天の決断に踏み切ったのはこうしたタイミングでした。これはハンガリーを含め、既に他の加盟国で登録していてもドイツで受け入れるというものであり、ダブリン規則を公然と反故にする宣言でもありました

美談で終わらなかったドイツの移民・難民政策
ここまでならばドイツの美談で終わります。しかし、その後に移民・難民が起こしたドイツ国内(とりわけケルン)での集団性犯罪事件に始まり、フランスやベルギーなどにおける凄惨なテロなどが移民・難民の受け入れに起因するものだと知られるようになると(もちろんその全てではありませんが)、あっという間に美談は「世紀の失策」として批判されるようになりました。ハンガリーのオルバン政権が移民に対して行った挙動は過剰で不適切なものだったとは思いますが、同国がそれまでに移民を多く受け入れていたのも事実です。むしろ、主権国家が身元照会も不十分なまま移民・難民を無制限に受け入れる方が異常です。


いずれにせよ、この決定で経済が磐石であったにもかかわらずメルケル政権の支持率が急落し、政界引退までも決断させられる羽目になった以上、一般的な評価としては失策と整理して良いでしょう

EU-トルコ合意の絶大な効力
以上のような欧州難民危機を巡る緊張ムードについてはご存じの読者も多いでしょう。しかし、この危機が如何にして表舞台から消えたのかに関してはさほど知られていない印象もあります。ここで出てくるのが今回問題となるEU-トルコ合意です。地理的な事情もあってトルコは世界最大の難民受け入れ大国となっている。

例えば、トルコからギリシャに流入した難民は2015年に85.7万人に上っている(駐日EU代表部より引用)。裏を返せば、トルコが協力的で当地からEUへ流れ込む難民を押さえ込んでくれれば、域内で殆ど決着の見込みが立たない移民・難民の受け入れ分担問題を回避した上で難民危機を収束させることができた。そこで成立したのが16年3月18日のEU-トルコ合意です。合意の論点は複数にわたりますが、今回の問題を理解する上では以下の3点の合意事項が重要です:

① トルコからギリシャに渡る全ての新たな非正規移民および難民認定を受けられなかった庇護申請者をトルコに送還した上で費用はEUが担うこと
② トルコがギリシャからの送還を受け入れるシリア人1名に対し、トルコからEU加盟国にシリア人1名を定住させること
③ 難民支援に向けに30億ユーロ(従前と合わせて計60億ユーロ)をEUが追加拠出すること

こうした合意によってEUは内政の混乱などを理由として止むを得ない事情を抱えるシリア難民(いわゆる政治難民)だけを選り好みして受け入れる一方、経済的理由でEUに入ってこようとする非正規移民(いわゆる経済移民)はトルコに送還することが可能になりました。これはもちろんタダではありません。EUからトルコへ合計60億ユーロの費用を支出することと引き換えです。このEU-トルコ合意を経てギリシャにおける難民申請は目論見通りはっきりと減少しており、EUは合意の威力を痛感したでしょう。一方、何かにつけて不安定な挙動を見せるつけるエルドアン政権次第では、いつ欧州難民危機が再発しても不思議ではないという状況がありました


つまり、合意を経て、EUにとってのトルコは資金やその他便宜を供与することで移民・難民の流れを堰き止めてくれる受け入れるダムのような存在になったわけです。ですが、今回、エルドアン大統領は公然とそのダムを決壊させることを表明しました。15年9月当時に比べればEUの域外国境に対する守備意識は格段に高まっていますので、そう簡単に大量の難民が雪崩れ込むことはないでしょう。しかし、入国されてしまえば申請を受け庇護を検討する義務が生じてしまう状況に不変ですので、ギリシャやハンガリーは戦々恐々です。

「見えない脅威」と「見える脅威」
EUは再びトルコと話をつけ、ダムの修復を図る必要がある。折り悪くも疫病という「見えない脅威」が襲い掛かって来ている真っ只中であり、ダム決壊に伴う移民・難民の一斉流入という「見える脅威」と対峙する余裕は今のEUにはないでしょう。

ここからは邪推に過ぎませんが、「見えない脅威」である新型コロナウィルスに関しては既に中東のイランで流行しており多くの死者を出しています。よもやトルコ経由でギリシャに流れてきた移民・難民が感染の端緒になるのではないかとの思惑も今後浮上しかねないでしょう。域内政治に目をやれば、盟主ドイツの政局が流動化し、とりわけ外交面では英国と将来関係を話し合おうとするタイミングでこの騒動が起きていることも不幸です。政治・経済・外交、どこを切っても今のEUには良いところがありません。


EUはこうした「最悪のタイミング」で起きた「最悪の出来事」をどのように処理するのでしょうか。既にECBや欧州委員会は金融政策や財政政策の柔軟な活用について前向きな姿勢を示していますので、何とかこれらを駆使して不安の鎮静化に努めるでしょう。しかし、「2020年こそ欧州経済が立ち直りのきっかけをつかめる」という年初から言われていたメインシナリオは風前の灯です。

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