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なぜメルセデスがテスラを追うようになったのか?ー無駄なローカル競争に陥らないために考えるべきこと

先日、英国のロンドン大学ゴールドスミス校のマスターコース「ラグジュアリーマネジメント」のプログラム・ディレクターと話しました。彼女は中国の出身です。ラグジュアリースタートアップについて次のような見通しをたてていました。

ラグジュアリーブランドは短期的にできるものではないです。それでも今の動向をみていると、中国のクラフツマンシップに基盤をおいたラグジュアリースタートアップが、国内外において存在感を出していくのは時間の問題だと感じています

日本の歴史は中国ほどには分断されていない、欧州ラグジュアリーの輸出市場として際立ったのは中国よりも数十年早い。中国の人がそうした点から日本に学ぶべきことが多いと認めながらも、現在、中国スタートアップが先行しており、日本企業のビジネス姿勢がついていけてないとの指摘がありました。

実は、彼女のみならず、他の大学で同様のプログラムを教えている先生からもこのような指摘は出ています。 

新しいラグジュアリー動向については、以下、フォーブスの今月の連載記事にも書きました。このなかで、日本の起業家たちは、国際的に認知されているジャンルでビジネスをしている意識がない、と服飾史研究家の中野香織さんは語っています。つまり居場所が見えていないために、力が十分に発揮できていないことになります。

さてここでは、新しいラグジュアリーが礎とする、世界各国で勃興してきているローカル文化について考えてみたいです。自分のローカル文化がどういう範囲と目安で世界から評価されるかを知るのが大切ですが、往々にして「うちが一番!だってオリジナルはこっちなんだから」との無用なローカル競争がおこりがちです。とてもややこしいテーマであるのは承知のうえで、こんなことで疲弊しない方向を探ってみたいです。ぼくが、これまで10数年進めてきたローカリゼーションマップの応用編として考えます。

まずオリジナルとは何か?を考える

ローカル文化とモノなりがテーマになるとき、「他のローカルにはないオリジナルか?」が問われることが多いです。さまざまな場所で多様な基準がありますが、固有の素材や技術が製品のなかで一定以上の割合であることが問われます。あるいは農産品であれば加工場所だけでなく素材の原産地も重視されます。またはローカル独自のモノの形状である場合もあります。

しかしながら、それらが100%、ローカル文化に古来から紐づいていることがあるものでしょうか?距離の離れた場所で同時に発生した技術はどう判断すればよいでしょうか?

ある要素はローカルに根付いているが、ある技術はどこか他のローカルからの伝播であるとの混合であるのが普通でしょう。そうすると500年前の伝播はローカライズされたものとしての文化的正統性があり、50年前のそれは「歴史が浅い」とローカル独自のものと主張できない・・・というような議論が出てきます。これは、極めて政治的なナショナリズムとも(残念ながら)相性がよく、ことを厄介なものにします。

ここで思い出すのは漆です。10数年前、ミラノの展覧会で日本の漆は日本独自の材料として説明されていました。そして何年後か忘れましたが、韓国の公的機関の文化紹介の展示に漆が韓国のものとして紹介されたのです。そうすると今まで日本独自だと信じていた外国人は「なあんだ、あの説明は眉唾ものだったのか」と反応します。ということは、アジア各地域にある材料なら、ローカル性は漆という材料をつかった表現の仕方に各国の強調点があるはずでした。

例えば、スペイン人は「イタリア料理の源流はスペイン料理にある」と言い、イタリア人は「フランス料理はイタリア料理を洗練させたものに過ぎない」と語り、フランス人は「我々の役割は東方の文化を洗練させることだ」と主張するとしたら、オリジナルとは何なのか? ですから、どの点がオリジナルであるかをお互いが認め合うことで、意味のあるものになります

コピーとは言われたくないが・・・

それではオリジナルでないものは、なんというジャンルになるのでしょうか?

欧州において内燃機関の自動車が19世紀半ばに誕生し、100年以上を経て、20世紀後半に日本は自動車生産大国にのし上がりました。最初は安かろう悪かろうだったのが、適当な価格の燃費のよいクルマとなり、その後にはレクサスにみるような高価な高機能のクルマも出てきます。

しかし、レクサスは「高級自動車はドイツが牙城。近くまでリーチできても超えることは無理」と長い間、北米市場で成功しても、特に欧州市場において一蹴されることになります。要するに、何をやってもドイツ車のコピーと見なされたわけです。ハイブリッドによって新たなイメージを作ったのは確かですが、(イタリアのフェラーリや英国のロールスロイスは別カテゴリーとして)ドイツ車を超える高級車はドイツ以外には無理とされました。

だが、今世紀に入って発表された米国のEV車であるテスラは一気に新しい領域をつくり、この1-2年は「今や、インパネのデザインは、メルセデスがテスラを追っている」とさえ評されます。駆動メカニズムの変更によってドイツ車がコピーする側に回ってしまったのです。高級自動車というジャンルにもうひとつの基準が持ち込まれ、コピーとは別物が存在感をはなつことになりました。

よってコピーと見なされる限りにおいて、自分たちが主導権をもつことはできません

レプリカとリバイバルとの道もある

ただし、同じ領域でも過去の傑出したものに敬意を表するオマージュとの文脈で、レプリカ(複製品)やリバイバル(復刻版)というカテゴリーもあります。違法行為としての模倣を指すレプリカではなく、博物館で過去の作品をリアルに見せるためのレプリカや、できるだけオリジナルと同じ感覚を実際に味わうためのレプリカがあります。これはレース仕様の自転車などにもありますね。

VWのビートルやフィアット500という例はレプリカではなく、過去のヒット製品のエッセンスを現代に蘇らせており、これはリバイバルです。こうしたリバイバルは、さほど精巧なメカを伴わない分野である家具や雑貨にはさらに多いです。

モレスキンという黒い革の表紙にバンドを使ったノートブックもリバイバルでしょう。作家・ヘミングウェイなどに代表されるコスモポリタン文化を継承するものとして、ミラノにあるデザイン商品を扱う会社が1997年に商標登録して発売しました。フランスで1980年代に生産中止となった黒いノートブックを英国の作家であるチャトウィンが「我がモレスキン」と形容したところから、モレスキンというブランドとして復刻したわけです。

こういう観点を踏まえ、歴史的文脈を重視しながら現代における意味を問うリバイバルは正統性をもちます。この場合、リバイバルの企画及び生産の場所は、過去へのリスペクトへの表現の仕方次第です。モレスキンのように、必ずしも最初のモノをつくった生産地とは限りません。オリジナルのスピリットの理解度が深ければ、主導権をもって歴史の新しい1ページに貢献します。

空白の期間をどうみるべきか?

ヨーロッパで15世紀にはじまった古代ギリシャ文化の再評価は、ルネサンス期として世界中の人が知る事実です。そしてギリシャ文化の遺産は長い間、ヨーロッパにおいて忘れ去られていた存在で、その遺産を継いでいたのがイスラム文化圏であったことも周知のことです。

このようにある文化をそのオリジナルの場所でずっと継承し続けることなく、ある期間、他の文化圏で継承され、再度、オリジナルの場所で「再発見」され、評価が新たにされる事象自体は珍しいことではありません。即ち、文化は時間を経ながら紆余曲折があり、オリジナルの場所から他のさまざまな地域に何らかの影響を残しながら巡り、違ったアングルで(あるいは違った入口から)「私たちの文化」に再び入り込み、私たちも愛するに至るのです。

その時、「私たち」は他の文化圏の人たちに感謝こそすれ、「自分たちのオリジナル文化であるかのように扱った」と一方的批判に終始することはないでしょう。仮に一時的にそういう声があったとしても、大局的にみる人たちが徐々にそうした狭窄的な見方を追いやっていくはずです。

中野香織さんは「1950年代に生まれ、1960年代に流行した米国東海岸のメンズトラッドファションは、本国ですたれても、日本で継承されています。そして、なんと米国に逆輸入されたのですね」と、ファッションを例に解説してくれます。 

即ち、ローカル文化といえど、世界各国の人々のコラボレーション(「戦い」もあるでしょうが)による結実であると考えることが妥当であると思えます。

つまりは・・・

ぼくたちが考えるべきは、前述したように、「俺たちの方が古い」「あそこは自分たちよりも後発。ただ宣伝が上手いだけ」と言い合いをすることではありません。今現在における斬新な視点、つまりはコンテクストの解釈と表現のオリジナリティが問われているのです。

これはぼくがよく例に出す、イタリアの中部・ウンブリア州にあるトータルファッションメーカーであるブルネッロ・クチネッリをみると分かります。1978年の創立で、その場所は聖フランチェスコの生誕の場、アッシジに距離的に近く、思想的にも聖フランチェスコスコに対する親近感があります。そこでアッシジのあるウンブリア州のローカル文化と職人を大切にします。

世界各地のファンからブルネッロ・クチネッリがハイエンドとして評価されるのは、古代ギリシャやローマ、イタリアだけではなく北方ルネサンス、あるいは中国や日本に至るまで、世界にある文化の良質な部分の「見守り人」であることを静かに語りながら、製品のコンセプトから従業員を含む地元民への敬意を実践と共に見せているからです。

ディテールがどこの由来であるかに拘泥するのではなく、その延長線上で示すべき全体像にフォーカスをあてながら、各要素のベストなバランスをとることに尽力する、ということです。

・・・・その意味で、本題にマキャベリは参考になるかも。

写真©Ken Anzai






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