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コミュニケーションの質と意味がさらに問われることになる「ハイパーローカル」の時代。

他の欧州諸国と同じくイタリアも、およそ2か月続いた封鎖が今月4日から徐々に解除されはじめました。しかし、封鎖から一気に怒涛の如くにおきた「可能な限りのオンライン化」は、当然ながら「解除」されることなく定着しそうです。デジタルトランスフォーメーションの導入に注力していた人たちは、「こういう惨事を経て、やっときたか」という感慨をもっていると思います。

もう一方、別の見方もあります。オンラインが普及すればするほど、リアルな世界の価値がより上がる。ただ、あまり極端は想定をする必要もなく、以下FTの記事にあるような、20年ほど前の景色が適当なのかもしれません。

世界には5000年繁栄し続ける都市があり、パリは今回も生き残るだろうが、かつての賑わいを完全に取り戻すことはないだろう。筆者が10万ユーロでアパートを購入した2002年当時、パリはもっと静かで観光客も少なく、物価もこれほど高くはなかった。パリがその時代に戻る可能性はある。


前世紀、テレビに出ている人とリアルで会えたら自慢できたでしょう?それと同じで、皆が同じ手段でしかコンタクトできないところを別のチャネルで接触を図れるのは特権なわけです。しかし、既に20年前、テレビ出演者と付き合うのは、特権とそう騒ぐほどでもない位置だったという気がします。あくまでも個人的な印象の話ですが。

オフラインからオンラインは量の問題ではない

さて現状の変化をオフラインからオンラインへの量(情報と時間)の重心移動だけで捉えていると肝心なことが見えてきません。見るべきは情報環境の質であり、さらにいえば「コミュニケーションの意味」です。ただ、この結論に至るには少々他のことにも言及しないといけません。

ぼくはミラノがロックダウン期間中、ソーシャルイノベーションの第一人者であるエツィオ・マンズィーニの"Politics of the Everyday"(日々の政治)という本の翻訳を手掛けてきました。本の内容が、これからを考えるにとてもヒントになります。彼は「我々は膨大に広く複雑な宇宙の微小な地球に住む微小な存在に過ぎない。そこで自分の生きる場所で考え活動し、自分の環境と関わり変えていくのが人間である」という認識から話をはじめます。

その文脈で、自分の住む場所とその周辺(ローカル)を「陣地」とします。だがグローバルに各地(の人)と繋がることが可能な時代にあって、物理的陣地だけがローカルではありません。それぞれの人のもろもろの能力で活動領域が規定されるサイズをもっても、ローカルと定義できるとマンズィーニは説きます。二重の意味でのローカルです。彼はこの二重の意味があるローカルを「ハイパーローカル(hyper-local)」と呼びます。

そこでインターネットとグローバリゼーションで、前述の個人の能力に依拠するローカルが大幅に広まったことを肯定的に捉え、「今や、世界何処に住んでも同じ。だったら好きな所に住めばいいじゃない。地方こそが魅力」とのセリフが積極的態度として受け止められてきました。もちろん、大いに結構です。人が適度に分散すれば地球環境にもプラスです。

ただ、かといって、ある身体的ローカルで透明人間のように存在することを意味しません。あくまでも「陣地」としての物理的空間・場を、ものを考えるベースとしてもっている。そして、そこにリアルな行動とそのフィードバックを受けるコミュニティに属している。この条件が組み込まれています。この組み込みが弱い場合、例えば孤独死という現象を生んでいるわけです。

したがって、どこにいようとコミュニティの質が焦点になり、そのコミュニティの基本は何かといえば、人との高い質の対話です。それが網目のように広がっていることが必要です。

ローカルコミュニティの質をあげるオンライン化とは?

ロックダウンの感想としてよく耳にするのは、「オンラインでできることが多くて良かったね!」という台詞と共に、「近隣のフィジカルなコミュニティって、すごく大切だね!」です。後者のセリフは、近くの誰かのために買い物に出かけたり、誰かに実際に手助けしてもらう経験で、痛切に必要性を感じた表現です。

人の生活の行動がすべてオンラインにはならない(それが可能なら、コロナの感染もオンライン上のヴァーチャルな存在にかかってもらいたいくらいです)ので、生物としての人間が日々を過ごせる環境にあって、社会的存在としての人間が楽しく充実感をもってー即ちは、生きる意味を感じながらー生活する環境が整備されている必要があるのです。

インターネットが一般に普及しこの20数年、盛んにオンラインとオフラインの共存とコラボレーションが問題視され、そのためのサイトやアプリも世の中には定着してきました。だが、それらはあまりに多くあり過ぎ、その結果、世界を独占的に覆うようなソーシャルメディアだけを「とりあえず日々の生活でなんとなしに使う」ことになりました。あるいは「とりあえず便利だから」とかなり定番のオンラインで何かを買います。

ここで、もう一度、マンズィーニに戻ります。

「とりあえずグローバルのデジタルプラットフォーム」を使っているのは、自分の身体的な領域をベースとするローカルで自律して生きるに、不透明で不安定な要素が多すぎないか?との現実的な疑問がでてきます。今回の禍で食料からマスクや医療器具に至るまで、ローカルでの自給自足が議論の対象になっています。同じように、ローカルでのリアルなコミュニティの生存に直接役に立つデジタルプラットフォームを再考しなくてもいいのか?これがマンズィーニが提示する論点になります。

ローカルで生きる自分たちのロジックが、自分たちが考える「良い生活」を目指すとき、グローバルに支配的なロジックと強烈なコンフリクトに遭遇することになります。この現状認識をベースとしない「都会を離れて空気の良い場所でオンラインで生活すればよい」という願望が、現実にどれだけ強靭な力をもてるのか? FTの記事にある、パリを離れて地方に棲み処を変える(かもしれない)人たちが、こういうことを真剣に考えているのでしょうか? 

コラボラティブ経済と相性が良いデジタルプラットフォーム

マンズィーニはウーバーなどに代表されるシェアリング経済とコラボラティブ経済を明確に分けています。「とりあえず」の目的を共有するにしても、手段を共有しない。これをシェアリング経済と呼び、目的と手段を共有するアプローチをコラボラティブ経済としています。以下の記事で少々触れた内容です。

このコラボラティブ経済をベースにしたとき、実際、これに相応しいデジタルプラットフォームが充分に用意されているとは言い難い。日々の生活とはものすごく情報量が多く活動領域が広いので、開拓すべきことはたくさんあります。

また、ある種の人たち(例えば調査や企画をメインとする)にとって、ビジネス上のある範囲は十分にカバーされているかもしれないですが、「ある種のひとたちでない人」(身体性の占める割合が高い人)にとって、現実の敷居は高いままです。職種もそうですが、ハイパーローカルの定義で書いたように、個々の人の能力によってローカルの広さが変わってきます。ある表現を言語で十分に叶えられる人と、言語以外の表現を得意とする人、この間でもローカルの広さは違うわけです。しかし、往々にして、オンラインでかなりの仕事ができる職種で、言語表現の得意な人が意見形成のリードをしやすいです。

他方、実際問題として、ビジネスパーソンが「案外、オンラインでできる!」と言うのは、ビジネスの幅がもともと狭いケースかもしれません。あるいは経済的利益だけの領域で話をしている場合と、経済的利益以外の領域に入ってきたときでコミュニケーションの質のレベルが俄然変わってきます。そして、ポイントは「学びを共有するコラボレーション」で書いた以下の太字の部分へのアプローチです。

今、我々が必要とするのは、目標と手段を共有しながら、かつそこには利用者が当事者として関与ができるシステムです。そこには関係価値、人とコラボレーションすること自体に価値を見いだす自律的な文化がある、ということになります。「それで経済的に何の得になるのだ?」という経済合理性だけで人の行動が決まるのではなく、「あの人たちと一緒に何かやって幸せを感じたい」との願いをどう持続的に満たしていくか?という部分に重点をおくわけです。

質の高い対話に求められる視座

オンライン化は歓迎すべき流れです。だからこそ、この重要なタイミングで、ローカルを拠点としたコミュニティづくり、必然的に付随してくる公共財のつくり方などを視野に入れないと、社会は差別あるいは格差を広げる方向に進みかねません。ある特定の人たちだけがアクセスしやすいプラットフォームはありえないです。

したがってオンライン化のなかに「オンラインをベースにリアルなフィジカルな部分へのアプローチをどうデザインするか?」を視点としてもつことです。

繰り返しますが、コミュニティの基本は質の高い対話がどれだけ成立しているかか?です。そして、偉そうにしている人間とそうではない人間の間には、対等の質の高い対話は成り立たないのです。どうしてもお互いをフラットな地平に導かないといけない。

マンズィーニがロンドン芸術大学で2014年から3年間主催した、「Cultures of Resilience」と名付けたデザインリサーチプログラムは、未知の人たちが出会い、活動を共にする仕方について焦点をあてました。「意味のある出逢い」の可能性追求です。

結果、分かった第一のことは「人々の直接的なやりとりをデザインし、それらのやりとりを実際に生じさせるのは不可能である。そのかわり、やりとりが出現しやすくなる条件は設定できる。人為的な環境で、やりとりを可能にして確率をあげる」可能性です。

第二に分かったことは「見知らぬ人が出会い本当の関係を築くには、全員が同じボートに乗らないといけないー全ての人が同じく脆弱な状況であると感じる(誰かがくつろぎ、誰かがそうでない、ということがあってはいけない)。さらに初対面の人に打ち解け、何らか弱くなるという危険を引き受ける。そこで出逢いは関係価値をもたらす」というのです。

即ち「戦略は、お互いが弱い状態を作り出して出逢いを活発化させる一方、その出逢いが安全な場所で行われるようにしたのだ(「リスクを取り除いた場所」とプロジェクトチームは呼んだ)。こうして、安全地帯でこそ「リスクをとる」ことを関係者たちが受け入れられるようになったのである」とマンズィーニは記しています。

皆が弱みを見せることに躊躇が少ない今こそ、新しい質の高いコミュニケーションのあり方を探る好機なのかもしれません。


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