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褒めるためには「ひと手間」をかけよう 学術界における「褒め」の問題から考える

今月のCOMEMOのお題は「#褒められてうれしかったこと」ということだが、これを見て思わずうーん、と唸ってしまった。というのも、ここ最近、仕事柄このテーマについて考えることが多かったからだ。

といっても、自分が褒められて嬉しかったことを思い出してはニヤニヤするということではなく、学術研究を指導する立場から見て、褒めるということを、もっと考えた方がいいのではないかと思っていたのである。

学術界におけるコメントの役割

筆者は大学院で修士課程、博士課程の学生を指導することを本業にしており、ゼミでの指導はもとより、学位取得に至る様々なステップで審査に関わることがある。また、学会では査読をしたりコメンテーターを務めることもある。

こういう場では、もちろん「良くできている」と言うことは多々あるが、それで終わってしまっては指導にならないので、「こういう風にしたらどうか」という提案や、「この点についてはどう考えるか?」といった質問を加えていくことになる。

基本的なスタンスは、その研究をより良いものにし、その研究がいずれ審査されることになる場(大学や学会等)の水準に照らして質を満たすように導いていくことだ。

特に、研究として発表する以上、最終的にきちんとした根拠や論理性に基づいた厳密性を持っているものかどうかが問われるため、その辺はいわゆる「突っ込む」ことがコメントの役割となる。

最初から水準を満たしており、何の追加コメントも要らないようなものであればいいのだが、そんなことは普通はあり得ないだろう。そのため、コメントは何らかの修正や再考を求めるものになることが多く、学術界に身を置く人は教師であれ学生であれ、批判する・されることが多くなってしまう面がある。

もっと自由にいろんなアイデアを語り合う場があってもいいのではないか、という問題意識から、私の研究室では今年初めて「フォーラム」というものを開催した。これは査読や審査とは関係なく、研究的な視点から調べたことを自由に発表し、議論する公開イベントだ。

普段の学術研究の厳密さから少し離れ、自由に議論できる場を作ろうという取り組みであるが、それくらい、普段は「突っ込み系」の議論が多くなってしまうということでもある。

個人の能力評価と権威付け

ところで、先日、大学教授らがスキル売買のサイトで論文指導や代筆をするというニュースが流れ、話題になったことがある。インターネットの仲介サイトを使って、現役の大学教員が、対価と引き換えに論文の代筆等を請け負うことが増えているというのである。

普通のビジネスなら、対価を払って有識者にアドバイスをもらって良い提案書を書いたり、よい報告書を書けたとしても(機密保持に反しなければ)、特に問題になることはないかもしれない。それで良い成果が出て事業が上手く進むなら、むしろ褒められる話だ。

しかし学術研究の世界は、個人の能力や成果への評価と、それに対する権威付けで回るシステムである。「その人」が能力を発揮した結果として書かれた論文が評価された結果、「その人」に対して学位や、業績の数といった形で権威が付けられていく。「研究スキル売買」は、そのシステムの信頼性が揺らぐ点において、問題を孕んでいるのだろう。

また、こうした学術研究の主な担い手としての大学は、そこで生み出され、審査を通じて認めてきた研究と、それを生み出した人材の積み重ねによって、その権威が保たれてきた一面を持つ。そのために審査というものは、褒めるよりも、質を担保するために厳しさを伴うものとなりがちである。

嬉しかった一言

こういったことから、学術の審査におけるコメントは褒めるよりも「指摘する」ことが多くなりがちであるが、ここで一つ私の体験談を紹介したい。

私が以前ある審査を受けている時に、ある審査員の先生から「あなたの研究の面白いところはここですよ」「この発見は今までなかったことですよ」と教えてくれた。それは自分でも気が付かなかった、あるいはあまり重視していなかった分析結果だった。

審査する立場になって思うことは、こういうコメントは、その論文のテーマや研究動向に精通していなければできない。また、その論文をかなりじっくり読み込んでいないといけない。その上で、本人も気づかなかったようなポジティブな面を教えてくれたのだ。

おそらく、その後に何か改善点の指摘をされたのかもしれないが、私が覚えているのは前半の「あなたの研究の面白いところはここですよ」と言ってくれた一言だ。それを胸に温めながら、今も歩んでいると言っても過言ではない。しかし、その裏には、それを言ってくれた先生の惜しみない努力があったのだろうし、だからこそ僕は嬉しかったのだ。

褒めるためにはひと手間が必要

おそらく今回の「#褒められてうれしかったこと」という企画の読者は、褒められるよりも、褒めることが社会的な役割として多くなってきた方が多いのではないだろうか。

もちろん「よく頑張ったね」とか「面白いね」といった言葉を上辺だけ言うことはできる。だけど、言われた側に残るのは、本人の立場からその仕事のことを考え、ひと手間をかけた上で、その仕事の本当の価値を教えてくれる言葉だ。

残念ながら(?)、学術審査の基準が急に甘くなるということもなさそうなので、せめてそういうひと手間を惜しまずに取り組んでいきたいと思う今日この頃である。


#COMEMO #褒められてうれしかったこと


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