絶対的なものなど存在しないから、縮尺を自在に調整できる視点を持ちたい
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絶対的なものなど存在しないから、縮尺を自在に調整できる視点を持ちたい

筆者は小学生の頃、神戸から浜松に転校したことがあります。
転校まもないある日、級友に「お前アホやな〜」と何気なく言ったら、その場の雰囲気が一瞬凍りました。
神戸の小学校では、この種の話法が、友人同士でふざけ合いながら、親しみを込めて使われていたので、それに倣ったわけですが、どうも勝手が違った感じがして、当惑した筆者は両親に尋ねました。
すると同じ静岡県出身である母は『こっちの人にとって「お前アホやなー」という言葉は、「お前はバカだ」と文字通り馬鹿にしているように聞こえるので、気をつけなさい。私は神戸に引っ越したばかりの時に、逆の驚きを感じたことがあった』と教えてくれたものでした。
言葉の意味は辞典に記述できるような絶対的なものである、という感覚があった当時の筆者は、それが地域により相対的に伸び縮みする、ということに驚きました。

この話は多分
・言葉は、それが使われる環境やシーンによってだんだん意味が変化する
・新たな意味は使われることによって伝播するので変化は地理的に独自に進む

という考え方で説明がつくと思います。

人の営みの中で相対的なものは、言葉とその意味だけではありません。
人が何かを選んだり、何かに対して態度決定するときの基準も、また然りです。
人が何かを選ぶ時の基準には、大きく
(1)正義
(2)それまでの文脈
(3)好悪
(4)損得
の4点があると思います。

(1)正義
道徳や倫理、法律などに基づき、対象となっているものや事象を評価する考え方です。これらは一見堅牢な物差しであるように思われますが、例えば最も疑いの余地ない定理であるように見える「他人を殺してはいけない」についても、それが戦時であれば揺らぎます。
また環境保護は正しいことだと筆者は考えますが、これもそれが大切であることが理解できるだけの科学的な知識や経験(公害など)がないと、その視座を持つことは難しいです。

トロッコ問題をご存知でしょうか?
暴走しているトロッコの先に動くことのできない無辜の5人がいて、そのまま行くと犠牲になってしまいます。あなたはたまたまトロッコの先にあるポイントのスイッチを押せるところにいて、あなたがそれを押せばトロッコは支線に誘導され、犠牲者は一人ですみます。
あなたはスイッチを押しますか?

この問題は、自分の判断により犠牲者を変えること(=人の運命を左右するか)というのが主題ですが、そのほかにも論点を含みます。
というのも、この議論が5人と1人の内訳はどうなんだ、という展開をすると、国によって助けるべき命の基準が異なるのだそうです。

助けるべきは、年長者だったり、子供だったり、男性だったり、女性だったり、なんとお金持ちだったりする由。
文化により命の重さが異なる、というのはなかなかにショッキングです。

また、同じ国の中でも、例えば日本では江戸時代・昭和の戦前・昭和の戦後・現在の倫理観を比較したら、結構な違いが出そうです。

このように正義は、一見絶対的なもののように思いがちですが、環境・知識・経験によって伸び縮みする物差しである、と思います。

(2)それまでの文脈
人間には一貫性(一旦発言した内容や採用した態度を貫き通したい)、返報性(誰かに何かしてもらうと、それを恩義に感じ、お返しをしたくなる)と言った性質があります。
これらは態度選択や意思決定の場面に影響を及ぼします。つまり人はそれまでの文脈を省みて、「スジ」を通すことを好む、ということですね。
この「文脈」と「スジ」は、その人の周りどこまでのネットワークを含んで考えるか、時間をどこまで遡って考えるか、ということにより異なってきます。つまり同じ環境下にあっても判断を担当する人の恣意的な線引きにより、その内容は変わってくる、という次第。   
ついでに、係争・対立下で、先に手を出したのはどちらだ、言い出しっぺはどちらだ、という議論になることがよくあります。
これもどこまでを含み、どこまで遡るか、ということにより見方が複数存在し得ますし、(1)で述べた相対的な善悪の物差しの違いにより、片方が何気なくやったことがもう片方には悪意にとられたりすることもあり、文脈の範囲・解釈はやはり相対的になります。

(3)好悪
実感として、なんとなく好き、どこか嫌い、と言った感情が意思決定に影響を及ぼすことは多々あります。
人間の意思決定には、直感的に判断するシステム1によるものと、論理的に吟味し判断するシステム2によるものがあります。慣れた道を運転するときはシステム1が動員されますが、初めての狭くくねった道を運転するときはシステム2が動員されます。
システム2の方が認知的負荷が高いので、脳はできるだけシステム1で済まそうとする性質を持ち、これにより日常の多くの意思決定が直感的になされる、と言われています。
直感には、例えば九九を覚えることにより掛け算が速くなるようなトレーニングにより後天的に獲得するものもあれば、飛んできた石を避けるようにいつの間にか身体的に身につけた、多分本能的なものもあります。この直感の様々な要素・構造の中に、好悪の感情も含まれているのではないか、と筆者は思います。
ところで人間には、接触頻度が高い、馴染みのあるものを選択する「流暢性」という性質があり、これにより意思決定は左右されます。都心のオフィス近辺には何十件とレストランがあるのに、気づいてみると昼食をとる場所が4−5件に固定されている、と言った経験は誰にでもあるのではないかと思いますが、これは流暢性により選好がだんだん絞られてきている、ということです。人と良好な関係を築くためには接触頻度が重要だ、とする「ザイアンス効果」をご存知の方も多いでしょう。
これらを総合して筆者が考えるのは、好き嫌いという物差しも絶対的なものではなく、経時的に変化し得る、ということです。

(4)損得
損得が指し示す範囲を経済的に限定すれば、これはお金の多寡、すなわち定量的に表現できるので相対的になる余地はなさそうですが、実はそうでもありません。
以前のNoteでもご紹介しましたが

人には選好するときに、恣意的に参照点を決めた上で、そこと比べて決める、という性質があり、直感的に経済的に非合理的な選択をしてしまうことがあります。
また、損得が指し示す範囲を経済の外側、つまり名誉、幸福感などまで広げると、参照点だけでなく上記(1)ー(3)も関連し、意思決定は複雑になり、その分相対性を増していくのではないかと思います。

以上、幼少時の経験を皮切りに、人の意思決定や態度決定にあたって、絶対的な物差しは存在しない、という話をしてきました。

ところが、普通に生活していたら空気の存在に気づくことが難しいように、人は自分が現在いる環境や、そこを満たす文化・空気や、それに基づく考え方をともすれば絶対的なもののように理解し、自分の物差しとそれ以外、といった正しさを盾に取ったマウンティングをしがちです。

しかし、言葉の意味も、価値判断の物差しも、無限のバリエーションがあります。自分自身も含めたなるべく多くの人が、複眼的な(というよりは、自在に縮尺を調整できる)視点を持ち、他者に感情移入し、他者の内在論理を理解し、他者の傷みを理解できるような世の中になることを、願ってやみません。

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富永朋信(プロフェッショナルマーケター・「幸せをつかむ戦略」著者)
9つの事業会社でマーケティングやってきました。うち、西友、ドミノ・ピザなど4社でCMO。現在は株式会社Preferred Networksの執行役員CMO、イトーヨーカ堂・セルム顧問、日経XTrendアドバイザリーボード、厚生労働省年金局広報検討委員、内閣政府広報アドバイザー等。