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なんか「稼げる文化」って言い方、おかしくない?

このところ、「文化」がメディアでもよく取り上げられます。いわゆる教養としての話題もありますが、この数年間のインバウンドの隆盛で気づいたのか、ビジネスの潜在領域として語られることも多いです。無論、10年前からスタートした政府のクールジャパン政策が文化をネタにしてきた影響もあり、その延長線上と見られる場合もあります。そう、東京オリンピックに向けてのプロモーション材料としても使われました。

文化が何を指すかはなかなか明瞭にはなりにくいところです。例えばイタリアの例ですが、以下の記事にある引用部分も文化と呼ばれるものでしょう。太字のところです。

長い伝統があり、仕上げや素材の品質が群を抜いていることが理由だ。

だがパンデミックが起きていなくても、技術革新とグローバル化のせいでイタリアの職人技や専門知識は優位性が消えつつあり、大規模投資や労働コスト削減なしでこの流れを覆すのは難しいと多くの人が懸念している。

「我々が今日まで生き残ることを可能にしてきた特徴が失われつつある」とリッチ氏は言う。

基本的に、人が生きるうえでの工夫が文化です。しかし、この7年半の日本の文化政策を振り返る下記の記事をみると、文化政策の芯が何なのかが実に不透明で、一瞬、このテーマがうさん臭いものに見えてしまいます。

だが、そうは言えど、このテーマについて、ぼく自身も考えることが多いにあります。

2005年頃からおよそ10年間、ぼくはローカリゼーションの重要さを説くに多くの時間とエネルギーを割いていました。その途上で、日経ビジネスオンラインに1年連載した記事をもとに『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?』という本も出しました。その頃の活動の大きな動機は、日本の大企業がグローバル市場にユニバーサルな性格の商品群に「気がつかず」に日本の文化性を入れてしまうことで、市場の販売の足を引っ張ってしまうことに注意を喚起することだったのです。特に2000年代は「ガラパゴス化」という言葉が頻繁に聞かれた時代です。

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当時、日本の自動車メーカーやカーナビメーカーに欧州人の地理的な把握を理解したうえでカーナビのユーザーインターフェースをデザインすべきだ、と説いて回っていました。上図を見せると、殆どの開発担当者は「えっ!!」と驚きます。高速道路で出てはいけない出口をNOと書き、出るべき箇所にSI(YES)と記した地図だったからです。日本ではラリードライバーの使う地図だとみられる思考手順です。

ローカリゼーションをするかしないか、その判断の基準はどうするか?市場の文化をどう理解するか?といったことを、かなり執拗に日本の企業に問うていました。商品の性格上文化度の高いもの、低いものがあり、そのカテゴリーに自覚的にならないといけないし、相手の市場文化の地雷を踏まないことも大切である、と。以下の分類もよく説明に使いました。右側の商品に開発・製造国のコンテクストが入りにくいものです。

ローカライゼーションマップ

但し、ハードとしてのスマホは世界共通性が高い必要があるが、そこで使われるアプリになるとローカルコンテクスト寄りになり、さらにコンテンツになればローカル度合いはぐっと高くなります。例えば、クライアント先の社内ワークショップでは、この分類を自ら作業することで、自社がその時に狙いたい市場と自社の商品にある文化性の差異に気づいてもらえるように努めました。

一方、左側には家電なら洗濯機やそれこそメキシコで売られる辛いマルちゃん、あるいは原産地が重視される高級ブランドなどが入ります。スイスの高級時計もそうです。かつて左側は「このカテゴリーの商品を観察すれば、市場の文化的特徴が見えてくるから注視するように」と説明しました。ただ、この5年間くらいは、インバウンドや日本食普及に代表される経験が行きわたったこともあり、ある程度、異文化理解へのアングルの取り方として定着をみたと判断し、このチャートはあまり使っていませんでした。これ以上は自分の経験で分かって頂くしかないだろう、と思ったのです。

ところが、昨年あたりから、またこの分類を引っ張りだして解説することが多くなりました。以前は右側の特徴を説明するためです。一方、今は左側のローカルのコンテクストが高い商品群の説明をするためです。かつて、悪い意味でいや応なしに右側の商品群に文化性が出るのがビジネス上で足を引っ張ったのですが、今、良い意味でいや応なしに醸し出される文化性(ローカルのコンテクスト度合いが高い)カテゴリーが注目されるからです。そして10年以上前はコンテクストという言葉自体、「何、それ?」状態だったのですが、最近はコンテクストという概念への理解が深まりました。

また地方発の商品を海外市場へ、自分たちのオリジナリティある文化を背景にした商品をハイエンド(ラグジュアリー領域)市場で売りたいとの意向から、このカテゴリーが気になって仕方がないようです。

良い傾向なのでぼくも応援したいです。でも、それならば、まず何はともあれ、色々な文化圏であなたの売りたい商品がどう認知されるかを知るための異文化理解の基礎を学ばないと、話がまったく噛みあいません。殊に、文化性があまり問われないハイテク機能商品ではなく、文化性が強い商品を出しないなら、このポイントに対して猛烈にセンシティブでないといけません。単に精神性の押し売りになってしまいます。 

あわせて、この1年間半ほど、ぼく自身、21世紀の新しいラグジュアリーの意味、特に新しくこの領域でビジネスをつくっていく人たちが前進できるロジックを探索しています。どこの文化圏といわず、どこの人たちもこのロジックを探し求めている現実を知ったからです。そして、こちらのテーマから文化の見せ方の洗練さが問われていると気づきました。

次のレベルで要求されるのは、「文化の見せ方の洗練さ」だと思います。文化覇権主義を(心底自ら)望まないソフトパワーのあり方、とでも言えばよいのでしょうか。(中略)これから求められそうな範囲は、ローカル文化の上にある「グローバル文化」が存在感を低下させるなかで、分散する各ローカル文化が「嫌な思いをできるだけしない」ための言語をもつためのロジック開発ではないかと思います。それが上に記した「洗練した文化の見せ方」を可能にするわけです。

文化が経済的効果を生むことを否定しているわけではありません。それはあくまでも「図らずしも生まれた効果」でないと意味がない、つまりは「求められる」ことが文化の特性です。もちろん、文化のタイプによっては、文化をつくる、あるいは求められるに至るプロセスに何らかの戦略性があって良いのですが、すべてにおいて機能製品のビジネスをする以上の洗練度が要されるのは覚悟すべき、ということです(因みに、文化を重視したビジネスには教育やルールメイキングという分野があり、根本には思想性が強くあります)・・・

・・・とすると、先に述べましたが、ラグジュアリー領域でビジネスをしたいと願望をもっている人は少なくないです。企業のサイズ問わず、です。それなのに、ラグジュアリマネジメントを体系的に学ぶ必要を感じない(そもそも、そういう分野があるのを知らない)って、文化とビジネスの不穏な関係に鈍感な証拠ではあるまいかと想像するわけであります

このテーマ、これからちゃちゃを入れていきます。


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