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淀まない水 〜ウェルビーイングの鍵は「同質的異種性」ではないかと思う

どうもこんばんは若宮です。

今日はちょっと組織のこととかコミュニティのこととか、「人と人のつながり」について書きたいとおもいます。


同質性の健やかさ

ICCサミットのスタートアップカタパルトに参加させて頂いたのがきっかけで、昨日、クラシコムの青木耕平さんのお話を伺う機会がありました。

クラシコムさんは「北欧、暮らしの道具店」という、とても素敵なショップ/メディア/ブランドを展開されているのですが、青木さんは経営の考え方やお人柄がほんとに素敵で、物腰柔らかいのだけど清志郎みたいなロックな感じがあって、なんかもう、大ファンなわけです。

(今回のテーマとも関わるのですが、僕のリスペクトする安田登さんとも対談されていたりします)


クラシコムさんはとても芯の通ったブランドを作られていて、それがとても心地良い。どうやったらこんなブランドを育てられるんだろう…!、とつねづね思っていたのですが、クラシコムさんはやはり採用にとてもこだわっているとのこと。

オフレコのこともあるとおもうので詳細は割愛しますが、採用をする時にある仕方でその人のセンスをしっかり確認して、同じセンスをもつ人を採用することにしている、と。それはスキルは教えられるけどセンスは教えられないから。


たしかにクラシコムさんのオフィスには、もうクラシコムの空気としか言いようがないものが流れている。こうして守られ、薄まったり変質することなくじわじわと濃くなっていく「同質性」がクラシコムのすごさだとおもいました。それは継ぎ足しながら使われるタレのように、競合が模倣できないユニークなバリューの根源でであり、また会社を健やかな状態に保っているのです。

(この「質」というのは、企業でいえばビジョン共感とかカルチャーフィットに近いですが、ちょっとそれとはちがう気がしています。何を目指すか、とかどう為すか、というよりももっと抽象的な、空気が合うみたいな感じかもしれません)


同質性が濃い水って淀まないの?

また今日、谷中の未来定番研究所で、さとなおさんのお話を伺う機会がありました。


詳しくはご著書の『ファンベース』を読んでいただければと思いますが、「新規顧客ではなく、濃いファンを大事にする」こと、そして「コミュニティ」の重要性についておっしゃっていました。

そしてその鍵として「homofily」(同質が引き合うこと、日本語でいうと類友)が大事だと。


以前書いたことがあるのですが、弊社uni'queは

”コミュニティのように会社を、事業をつくる”、というのを目指しています。

自社サービスでもユーザー・コミュニティがあり、その運営としても日々のコミュニティの実験の中で悩んでいること、そして青木さんとさとなおさんのお話をきき共感しつつももやもやしていたことを、思い切ってさとなおさんに質問してみました。


「新規より濃いファンが大事だというのは分かるのですが、新規がはいらなければコミュニティは窒息してしまうのではないですか?」

この質問の意図は、「同質性が濃縮されたコミュニティは淀み、窒息しなのだろうか?」ということでした。


コミュニティマネジメントをしたことがある方ならわかるように、コミュニティというのは、常連がタコツボ化し、濃いメンバーだけになっていくといずれ澱がたまり、どろどろ血のように淀んできます。たとえば日本は同一民族ですが、であるから故に、同調圧力が強く息苦しくもある。これはどうなのか、と。

同質性の濃いコミュニティは息苦しいのではないか?そうではなく、異質なものが交じる、diverseな組織をつくるべきでないか?


それに対するさとなおさんはの回答はこうでした。

「新しい人は必要だけれども、それは同質な人であるべきで、同質でない人は入れるべきではない」


同質は、「同じ」ではない

ここで僕は、同質という言葉の意味を正しく理解していなかったことに気づきました。

同質というのは性質が同じ、とだけで全く同じということではないのです。たとえば性質が同じでも、性別や人種が違ったり、年齢がちがったり、立場が違ったりすることはある。むしろちがうもの同志だからこそ、同質というのです。


つまり「同質的異種性」です。同質だけれどもちがう。大事なことはそれではないか。

僕は最近「縁」を大事にしていて、ぴんとくる人には全くちがう業界の人でも、直接仕事に関係がなくても積極的に会いにいくようにしています。するととても学びがあり、触発されることが多い。


これはある意味では異業種、つまり「異種」だからです。これは僕の印象ですが、「同種」だと同じようにはならないようなケースが多い気がします。よく「カニバリ」といいますが、業界の中でやってることも考え方も同じだったりすると、嫉妬したりパクっただのパクられただの、といって揉めることもあります。

「カニバリ」とは同種の共食いです。でも異種であればぶつかることはなく、うまく補完しあったり触発し合ったり出来ます。


しかし「異種」の人でも、学びがある人というのは、なんとなく、言葉でうまく説明できないような「同質性」も感じます。それは出自や業界やスキルではなく、考え方の指向性というか、生き方のスタンスとかモードみたいなものです。


思い返せばクラシコムの青木さんも、同質性の重要性をおっしゃいつつ「会社が健やかであるために新しい人をちゃんと入れる」ようにしているとおっしゃっていました。これもある種、「同質的異種」が共存する状況をつくることかもしれません。新しい職種や仕事が生まれたり、新人がはいってくれば、スキル面でも「ちがい」が生まれます。そうするとそこには流れができます。流れがある水は淀みません


逆に「異質的同種」の集まりには流れはできず、衝突と斥力が働き殺伐としてしまいそうです。

同質的異種とつながりながら、淀まず水のような、ウェルビーイングな組織と新しい価値をつくっていきたいなーと思いました。

企業や学校やSNSで苦しくなっていたら、それは異質的同種だからかもしれません。同種の場所を出て、同質な異種と出会う旅にでてみてはいかがでしょうか。


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