見出し画像

エンタメが死んでいかないようにするには

社会の中で暮らしている以上、個人の存在も、スポーツも、芸術も、全て「政治」に関係ある場所に存在します。表層的にはアスリートはスポーツだけを、アーティストはアートだけに従事しているように見えても、彼らも真空の中で存在しているわけではない。社会という構造の中で政治の影響を受け、他者に対しても少なからず影響を与える。特にコロナのような未曾有の事態に国、そして世界全体が陥ってしまった際には「自分とは関係ない」とは決して言い切れないし、そのウィルスをどう抑制するのか、どうやって国民や産業を守るのかは個人個人のアクションが積み重なって大きな力になる。

国内の大きな音楽フェス、ロック・イン・ジャパン(通称ロッキン)の中止が昨日発表された。突然の緊急事態宣言発表やオリンピックのカオスさが合間って、音楽ファンやアーティストはショックを受け、各々怒りや苛立ち、悲しみなどを表明している。

そもそもコロナが収まっていたらロッキンは開催できた。オリンピックがなかったらコロナ対策は徹底されていただろう。そして、オリンピックを止めることができない現状に、日本は今立たされている。

自分は今海の反対側からこれを書いているわけだが、ただ日本を咎めたいわけではない。自分には日本で暮らす大切な家族や友達が数多くいて、彼らの生活の苦しさを毎日聞いている。入院している親と面会できない、留学に行けなくなった、ライブができずに赤字続き、心身ともに病んで仕事ができない。表には出ない苦しいストーリーが、数え切れないほど存在しているのだ。

環境破壊や資本主義の加速化によって、COVID-19のようなパンデミック、または自然災害は今後増えるばかりだ。ましてや今目の前で起きている明確な問題と向き合えず、解決せずに「前に進み続ける」ことは、ただ過ちを省みず、同じ間違いを繰り返す要因に直結するだろう。ロッキンの件においても、これをきっかけに原因の究明を行い、そして政治に潰されるのではなく政治と共に発展を続けられるような環境になれたらと強く思う。現在の政治やメディアが国民から問題を隠蔽したり、問題の存在を忘れさせようとすることにばかり努めている以上は難しいことは承知だが、今後同じ間違いを犯さないためにも「問題の原因を明るみにし、世間と共有し、今後の対策を考える」ことは必要不可欠だ。

このロッキンの中止を受けて、「どうしたら良いのだろうか」「自分にできることは前に進むことのみ」「音楽を作り続けることしかない」などという声が著名なアーティストから上がった。「ライブを止めるな」「音楽を止めるな」「自分にできることからまずは」と、鼓舞するような言葉である意図は重々に理解できる。ただ、権力がない人も音楽活動を続けられるようになるためには、マスに対する社会的影響力のある人にこそ「無関心」と「諦め」に沈ませない責任が生じる。他のアーティストにできることもリスナーにできることも無限にあり、アーティストという属性から離れた先にも社会の一員として、そして広い意味でこの世界で生きる人として、今やらなくてはいけないことは山ほどある。

「エンタメが死んでいかないようにするためにはまずは政治を変えて、エンタメを大切にするように圧をかけ続けること」が必要だとも思う。「音楽を政治に絡めるな」という意見が現在の日本では多数なのは理解できるが、コロナによって真っ先に政治や大衆に見捨てられたのは音楽関係やライブハウスだったことを決して忘れてはいけない。

ミクロな視点ではもちろん曲を作る/作らないの二択を示されたら当然作ることは抵抗の一種だが、最終的にはコロナを抑えなかった政治、そしてそれを変えられなかった市民に責任の所在があるという事実は変わらない。

「〜しかない」という構文に危険を感じる、という発言に対して「揚げ足取りだ」という意見も寄せられた。他人の意見を変えるつもりは毛頭ないが、実際にコメント欄でも「ファンにできることはCDを買いまくることしかない」「曲を聴きまくることしかない」と書いている人も多く見受けられる。そうやって支援者をはじめとした人々が社会に対して消極的になり、実際に起こせるアクションに対する視野が狭まっていくことに繋がってしまうというのが残念ながら現実だ。

アーティストが「ノンポリ主義」なのは個人の自由だ。ただ、アスリートが普段は「スポーツの力を」と謳っているのに、オリンピックに対して「アスリートが何言っても変わらない」と言ってしまうことに矛盾を感じるように、音楽によって何らかの変化を起こし、大切なものを守る気力を生む力を求めるのであれば、政治や社会において関心を持つように促すこと、または少なくとも口を紡がせてしまう方向に進まないことが必要なのではないだろうか。そもそも、自分は「政治的な発言をしろ」とは思わないし、さらに言えば「政治に関与せず、音楽だけ作る」というのも既に政治的な表明だ。

発言する/しないは自由で、した方がいいと思うかどうかも自由。そう仮定した上で、社会問題に対してアクションを起こしたり、政治に関わる発言をするアーティストに対するスティグマがまだ日本では根強く存在している以上、「アーティストは政治に口出しするな」と言ったような風潮が強まることは全員にとって危険。ライブハウスを残すためにも、アーティストが支援金を受けるためにも、スタッフや従事者がワクチンを打ったり補償を受けられるためにも、全てに政治が関わっている。フェスの中止も決して「仕方がない」ことではないし、原因の解明や今後の対応方法を見出さないと永遠に踏みつけられてしまう。

大袈裟に聞こえるかもしれないが、アーティストが政治や社会問題に言及すると「大人しく音楽だけに集中しろ」という意見が多く寄せられている状況がいつも苦しい。そのスティグマを増長する同調圧力をまたアーティスト自身が産むような状況は回避したいし、萎縮せずに音楽文化が育つ環境にしたい、というお話しをアジカンのゴッチさんとした。日頃から完璧な人だけが政治的発言をしても許される、少しでも間違った発言は許容されない、そのような状況に対しても当然変化を起こすことが求められている。これは同じように「萎縮」を促す環境の変化の延長線上にあり、「自分にできることだけをやろう」というのはその目標から遠ざかってしまう風潮でもあるのだ。

より多くのアーティストや市民が声をあげ、行動を起こせるようになるためにも、「餅は餅屋だけ」「自分のことだけをしろ」「前だけを向いて進め」というtoxic positivityや自己責任論から一刻も早く抜け出し、コミュニティの一員としてどう変化を起こすことができるのか。連帯し、議論し、現状の問題を変えていく必要があるのではないだろうか。

記事を読んでくださりありがとうございます!いただけたサポートは、記事を書く際に参考しているNew York TimesやLA Times等の十数社のサブスクリプション費用にあてます。