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日本のビジネスでなぜ今アートなのか~デザインや「美しさ」との関係で考える

この数年、アートを語る人がとても多くなっています。特に日本のビジネスパーソンで目立ちます。欧州のビジネスパーソンはそれなりにアートを普段からネタにしてきたので、短期間で話題としてブームになったとの印象はありません。

日本でのアート語りは、およそ3つのテーマに分類できそうです。一つは「教養としてのアート」です。それも社会的ステイタスがあがると「アートくらい雑談の場で話題にできなくちゃあ恥ずかしい」というたぐいと、この記事のタイトルにあるように異なった価値や考え方に触れる題材というタイプがあります。

2つ目は投資目的です。現在、活躍するコンテンポラリーアーティスト、特に比較的若い世代の作家の作品をコレクションに入れ、中長期的な大幅な値上がりを待つ人たちです。

そして3つ目が、ビジネスの新規事業を考えるか、イノベーティブな人材を育成するためにアーティストのような思考プロセスを学ぶという人たちです。

どれもアートの機能なりの一部が切り取られ、分析的に語られているのが特徴です。今回は、この数年のブームのなかで、ぼく自身がアートとどうつきあっているかについてのエピソードを紹介します。

「アーティスティク・インターベンション」という言葉がある

現在のアート(語り)ブームをみていて思い起こすことがあります。2017年に遡ります。その年『デザインの次に来るものーこれからの商品は「意味」を考える』という本を出しました。立命館大学経営学部でデザインマネイジメントを専門とする八重樫文さんと書いた本です。

彼の担当する章でビジネスにおけるアートの力に触れています。ビジネスとは対極的に位置するアートの採用、つまりはアーティストにプロジェクトに参加してもらい、ビジネスパーソンには思いつかないような考えを提示してもらうという手法があり、この試みをアーティスティク・インターベンションと称している、と紹介したのです。

実は、このアーティスティク・インターベンションをデザインの本に入れるかどうかは、編集の最後にかなり議論しました。この考え方や手法を入れ込むことが時期的に早すぎないか?という危惧がありました。デザインをコアにした本全体の構成のなかでアートだけが浮かないか、とも。しかしながら、ビジネスがアーティストがもつ要素と共存すると面白くなるとの確信はあったので、本の終章に入れることにしました。デザインと対立するものではなく、デザインを補完するものとしてのアートという位置づけです。

そうしたら、ちょうど同じころ、ビジネスに役立つアートの本が書店に並ぶようになり、自分たちの本の終章は間違っていなかったと確認したわけです(ただし、まさかアート的な考え方がデザイン的な考え方よりも優れているとか、デザイン的な思考はロジックによるものでイノベーションには向かないというようなことを大きな声で言う人たちが、その後に出てくるとは当時予想していませんでした)。

アートの本が増えてきた時、ぼくは何を感じたか?

ビジネスパーソン向けアートの本が増えてきたとき、最初は方向のミスがなかったと安堵したのですが、その手の本が増えてきた理由は何か?を考えました。

ぼく自身、ミラノで長い間、コンテンポラリーアートの動向をみたりアーティストともつきあってきました。一方でアーティストの提示するヴィジョンがデザインや産業界からどう扱われるのかもリアルにみてきました。そこでいつも感じたのは、デザイン分野はアート寄りに立ちたい欲があり、アート分野はデザインにはさほど興味をもたない文化土壌とビジネスの仕組みがある、ということです。

ですから、アーティスト本人はアートがビジネスやデザインに役に立つことに関心は抱きませんが、第三者がアートをビジネス界で盛り上げる動機はあります。そこでデザインの穴のどこをアートによって突かれたのか?に思い至ったとき、「そうか!」と気が付きました。

デザインはもともとは物理的なモノのスタイルや色における「美しさ」(審美性)を重要な項目としてもっていました。しかし、時代を経てデザインの対象が電子機器のユーザーインターフェースやコミュニティとなり、それらをつくるための手法としてデザインが多用されるようになります。殊に後者では多数のメンバー間における合意形成のツールとしてデザインが使われるため、「美しさ」の尊重がデザインの必須項目から落ちていきます。そうした主観要素の強いものをひきずっていると合意なんてできるわけがない、と。

そしてスター的存在のデザイナーもお高くとまっているマイナスを自覚し、「デザインにセンスなんて不要なんです。もっと論理的なものです」というデザインの民主的ロジカル側面をアピールするようになった結果、デザインにおける「美しさ」の相対的位置が猛烈に下がったのですね。そこをアートが突いた、と気づきました。そう思ったのは、2017年ではなく2018年に入ってからかもしれません。

「美しさ」は構想に確信をもつ動機となる

「美しさ」の欠如が、デザインが(第三者が主導する)アートに攻撃(!)された背景であると思ったわけですが、さて? とまた思うようになります。コンテンポラリーアートの世界で新しいコンセプトが最優先で賞賛されてきているなかで、アートのおける「美しさ」が占める位置は低くなっています。その流れからすると、審美性重視とのレベルで競い合う(助け合う)のもしっくりこないなあと思い始めます。

他方、デザイン、特に企業が市場にいる人々の要望に耳を傾けるタイプ(outside-in)ではなく、事業や商品企画を推進する人たちが人々が愛するであろうものを自分たちで考える(inside -out)タイプを唱えるロベルト・ベルガンティ「意味のイノベーション」のエバンジェリストとして動くなかで、「美しさ」は自らの構想に確信をもつためのエッセンスであり、動機であることに気が付きます。アウトプットが美しいか否かを論じるための鑑識眼の話ではないのです。

自分が「美しい」「美味しい」といった感覚を抱いたモノやコトがあり、それが構想のコアにあるとき、自分の構想に自信がもてオーナーシップがもてるようになります。つまりは「自分事」として前進できる、ということです。

いずれせによ、この審美性の意味とアートが直結しているわけではない、という点は強調しておきたいです。

クラフトとアートの間を探り始める

並行して、アート、殊に欧州近代に誕生したファインアートとクラフトの境界線にぼくの関心が向いていきます。その境界線が文化圏によって違います。端的にいえば、欧州文脈においてはこれらの2つは明確に分かれています。

近世までは壁画、家具、工芸、(額縁にはいった)絵画もすべて1人のアーティストやひとつの工房がカバーする範疇でしたが、近代に入り、壁画や工芸のような応用芸術と彫刻や絵画のファインアートに分かれ、アートといえば後者を指すことが多いです。前者はクラフトですね。

しかし、上記の分類は西洋芸術におけるもので、それ以外の文化圏ではそうした区別がありません。日本の文化も陶器と絵画を別ジャンル扱いしませんよね。この境界線が問題になるのは、例えば日本でアートとして高く評価される実用性あるセラミックアート作品が、欧州市場においては日用品扱いになり、金額もアート領域とすればかなり低いレイヤーの金額しかつかない、という状況をみたときです

例えば、欧州のギャラリーにおいて機能性あるセラミック作品の上限はおよそ5万円くらいであり、機能をもたない形状のセラミック作品は20万円くらいを下限として更に上のレイヤーで展開する、といった具合です。デザインはアートに近寄りたいとの欲があると前述しましたが、その理由の一つとしてこのようにアート市場で評価されると青天井の価格体系に入るからです。

したがって、欧州のなかにおいても、欧州外においても、西洋芸術文脈におけるアートの範疇に入ることに虎視眈々とするわけです。しかもデザイナーが顧客の意向に従わなければいけないことが多いのに対して、アート作家はコンセプトの主導権を握れるのです。

そして、この両者の間で微妙な立ち位置をとっているのがラグジュアリー領域です。そこにぼくは面白さを見いだし、2019年あたりからラグジュアリーの新しい意味を探索することをはじめたのです。

アートは1人のアーティストの考えの変遷と工房をみるところに醍醐味がある

これまで述べたように、この数年に限っても、ぼくもアートをいくつかのアングルからみてきましたが、ぼくのようなアーティストではない立場の人間にとって、アートの醍醐味は2つだと思っています。

一つはアーティストの考えや想いの変遷を作品を通じて知る面白さです。人生の歩みとともに、テーマや表現の仕方が徐々に、または時に画期的に変化していきます。文学、音楽、映像、どの表現領域においても共通することですが、1人の表現者の変化を追うほどワクワクさせられ、鑑賞者にとっても血となり肉となることはないと思います。

二つ目は、活躍中のアーティストであれば、作品を作っている現場に出向き、本人と言葉を交わすことで見えてくる風景を体験する臨場感です。仮に作家がもうこの世にいなければ、作家の残した文章を読んだり、その人が眺めた風景をみることによって、「なるほど、こういう風景を前にして、ああ考えて表現したのか」と分かる楽しさです。

いってみれば、1人の人間をまるごとわかる術がここにはあります。アートを分析的にみる効用がある一方、このように全体的な姿をそのまま分かろうとする姿勢をもつことによる内的な喜びが同時にないと、アートとつきあっていくのはなかなか難しいかもしれません。

最後に。冒頭の写真はミラノ・ブレラ美術館にあるヴェロネーゼによる『最後の晩餐』(1580年)の一部です。手伝いの少年がそそくさとワインを飲んでいるようです。先月からやっと美術館に自由に行けるようになって早速出かけた目的は、15-18世紀、欧州の人たちが食卓にどのように座り、そこに何を並べているかを確認するためでした。

ナイフ、フォーク、グラスがあるかどうかです。16世紀であれば、中央の皿にある肉を切るために厨房で使うナイフは絵画のなかにみつけることができますが、食卓についた1人1人は手で食べるのが一般的でしたので、皿以外のモノが見当たりません。

昨年から、フランスの歴史家、フェルナン・ブローデルの本を仲間と読んでいるのですが、ブローデルが文献資料以外に絵画から当時の生活のありようを把握しているので、ぼくもその実感を欲しかったのです。これもアートの楽しみ方の一つでしょう。


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