ボクは何者?ワタシは何者 ?― 自我レス時代 ①
「私の大学の今年の一般入試の志願者が前年比4割減となった。ライバルの大学が5割減だったそうだから、ちょっとマシ。学校推薦・AO入試は例年並みだったので、定員はなんとか確保できそうだが、コロナの影響で高校生の大学進学についての意識が変わったようだ」
ある大学の経営諮問会議での入試についての学長報告だった。コロナ禍影響は、飲食や旅行・観光産業や都心の商業施設だけでない。大学経営も大変なことになっている。しかしコロナ禍だけが影響だろうか。コロナ禍は、きっかけにすぎない。課題は、コロナ禍だけにあるわけではない。コロナ禍前からの課題が掘りおこされたところが大きい。
1. 大学生は時間を無駄にしている?
オランダで技術と社会の関係を議論していたとき、日本の大学の教員だったことのあるオランダ人から、こういう発言が飛びだした。
「日本の大学生は、時間を無駄にしている。大学に入ったときに、どのような社会人となりたいのか、社会で自分がなにをしたいのかという明確な像をもっている学生は多くない。就職活動しなければならない学年になって、ようやく社会のこと、社会人となる自分のことを考えるようになる。世界のなかで、とても珍しい」
この会話はコロナ禍前の話。日本の小学生は偏差値の高い中高一貫校をめざす、中学生は偏差値の高い高校をめざす、高校生は、医学部や人気ランキング上位や認知率に高い企業や霞が関に就職しやすい大学に合格することをめざす。
「ゴール」にたどりつくまで好きなことを封印したり、社会でなにをしたいのかどう貢献したいのかなど考えない。そんなことを考える時間は受験にもったいないとすら親や教師に諭され、受験勉強にまっしぐらに頑張る。その「有名大学進学=人気企業・役所就職」という出口が見えにくくなった。ただひたすら医学部に、良い学校に、良い会社に、良い役所に進むことが「勝ち組の方程式」だという人生設計が崩れつつある。これまでの有名・人気のあった企業の採用がコロナ禍でなくなったり、前年比5割減になった。どうしたらいいのか。
またイタリアを旅していたとき、ブランドショップの前で、イタリア人にこういわれた。
「日本人の若者はイタリアのブランドの服やカバンや時計を身につけてくれているが、地元のイタリアの若者の多くは持っていない。イタリアの若者は自分でお金をためて買えるようになってはじめてブランドを買う。ブランドが似合うような年齢・人になってはじめて身につける」
「日本人はブランドが好きだから」と思考停止してはいけない。当然のことながら、自ら稼いでいない高校生や大学生の経済力ではブランドが買えないので、親や祖父母に買ってもらったり、なにかを犠牲にしたり無理して買おうとする。そうまでしてブランドを持って「自分がない」自分をブランドで補強しようとするが、似合わない。ブランドに負ける。
2.なにをめざして、ここに来たのだろうか
コロナ禍で、大学への入学志願者の激減だけでなく、大学生のなか休学・退学が増えているという。コロナ禍で大学キャンパスになかなか行くことができなくなり、オンライン講義が中心となったり、部活やサークル活動ができなくなった。オンライン講義ばかりならば、大学生として帰属していることの意味ってなんだろう、大学ってなんだろうと考えるようにもなった。
大学の教室で対面授業ができない一年がすぎた。
社会人もオンライン会議・講演が普通になり、場所と時間の制約から解放され、飛躍的に情報収集力があがったが、できる人・企業とそうでない人・企業との差は大きくひらこうとしている。大学生もその情報収集の本質は同じ。よって大学の講義は放送大学スタイルが普通になるかもしれない。そうすると、今までのような学費構造は通用しなくなるかもしれない。
これからも講義はオンライン中心になっていくと、大学ブランドではなく、“先生”で選別されていく時代になるかもしれない。日本国内だけではなく、世界の優れた“先生”の最高の講義を探し求めて聴く時代になるかもしれない。ヤル気があれば、とてつもなく成長できる時代になる。いやそうなった。
とすると、大学はなにかを伝えるのではなく、集めた情報をどう受け止め、なにかとなにかを融合して新たなものを生みだす「考える力」を育てる場に大学は変わるかもしれない。コロナ禍を契機に、で大学に進学するというスタイルそのもの、価値全体が元に戻らないかもしれない。
こんなはずじゃなかった ― 大学生として自分の思うようにならなかったというコロナ禍ショックは大きい。さらにコロナはなかなか終わりそうもない、だとしたら自分が夢描いていた大学生活はこの4年間で実現しないのではないかという不安も強まってくる。そんな将来への不安に加え
ということがコロナ禍のなか、分からなくなるのではないだろうか。コロナ禍前の大学生活は、日々の慌ただしさのなか、楽しく日々を過ごしていた。いろいろな人やモノやコトと出会い、体験ができるはずだった。それが
コロナ禍前の普通の大学生活であった「仲間と集まって語りあったり酒を飲んだりすること」ができなくなった。昨日も今日も明日も明後日も、朝起きて自分の部屋にいたまま、リモート講義に出て、リモート演習に出る。昼の休憩時間に自分の部屋で昼食を摂って、午後もリモート講義。一人で一日中、すべての大学生活を自分の部屋で自己完結。圧倒的な自分時間のなかで自分と向きあう。自分を見つめるなかで、
という不安感が高まり、大学を休んだりやめて行くようになっているのではないだろうか。自分自身の存在に納得性が得られなくなると、そこにいる自分を選択できなくなる。
もう一つある。大学を卒業したらどうなるのか、大学を卒業した先によい就職があるという未来が見えにくくなった。あれよあれよで4年間がおわって、会社に入って、予定された人生を歩くはずだった。それがそうではなくなりつつある。ゴールと思っていた人気有名企業の採用がコロナ禍で無くなった。「予定」していたコースが無くなった。
22歳で有名大学を卒業して、有名会社・役所に就職して、何歳で結婚して、何歳で子どもを産んで、何歳で係長になって、何歳になってマイホームを建てて、何歳で子どもを進学塾に通わせ、何歳で子どもを有名中学校に入れて、何歳で課長になって、何歳で定年退職して、何歳まで再就職して、あとは悠々自適で世界一周…そんなだれかがつくった約束された人生計画が描けなくなった。
3.わたしは何者?― 自我がない時代
あなたはなに?―― それに答えられない。
社会全体がその問いに答えられない。ボクは必要なのか?私は誰かに愛されているのか?なんのために生きているのか?に答えられない。それは今にはじまったわけではなく、昔からの傾向が強まったのだ。
という「怖さ」をかかえながら生きている。
だから「自分」を主張する。だから社会全体が饒舌となりエンターテインメント化して、黙っていることが難しくなる。黙っていたら置いてけぼりになるのではと不安になる。あらゆることがイージーに表現できるようになり、大量の情報が瞬時に多面的多様的に行きかおうとも、コミュニケーションがどれだけ活発になろうとも、自分が何者か、なんのためにここにいるのか、なにができるのか、自分は愛されているのかという基礎が揺らいでいるので、「そこにいる」ことへの不安感は強まる。それは
コロナ禍前から、本当はそうなっていた。そのことに気づかなかったり、気づかないふりをしてきた。それを正さなかった。そこから新たなモノやコトが生み出せなかった。それはなぜか。「自分がなかった=自我がなかった」のだ。だから「コロナが収束したら、元に戻る」と思おうとする。
「思想史」という学問がある。
学問の学説史や文学史、芸術史、経済史といった個別の思想の歴史を縦軸とするならば、それらを横断して全体的な思想の様式・構造などを時代単位に捉える横軸の歴史である。思想史的に捉えると、江戸の思想史、明治の思想史、昭和初期の思想史、戦後の思想史、平成の思想史がある。令和に入った二年目にコロナ禍となり、平成時代とはちがった令和時代の思想となる。令和はどんな時代の思想史にならなくてはいけないのだろうか?
そもそも「自我」とはなにか。
他ではない、これが自分自身というのが「自我」。
哲学的に聴こえるかもしれないが、思想の中核は「自我」と「他」の関係である。他との関係性をつくるうえで、自我=自分が何者であるのか、どうあるべきかを持っていないといけないが、それがない人が多い。
社会全体がそうなっている。だから常になにかをパフォーマンスしたり、語り続けようとする。黙っていると、社会のなかで自分は認識されなくなり、必要とされなくなのではないか ―― その不安が「自我レス」の中核。
自我レスを背景に、過度な自己主張や自意識過剰となる。これはだめ、あれはだめと文句を言う。じゃなんならいいの?と訊ねても、答えられない。だめなことはいくらでも言えるが、どうしたらいいの?の問いに、ワタシには分からないと言う。
膨張している夢や自意識は欲求レベルであって、自我ではない。「こうしたい、ああなりたい」は、たとえば女子中学生が女性アイドルグループのセンターになりたいというのは夢であって、自我とはいわない。“私は〇〇になれる”と思い込むことが自意識。そうなるため、すべてを捨ててそれに集中するということは自意識であって、やはり自我ではない。
コロナ禍前社会に蔓延していたのが、「他ではない、これが自分自身ということがない」という「自我レス」であった。自分がない人、誰かがつくったコースを決められたとおりに歩いた。約束されたコースの多くがなくなった。
どうしたらいいのか。「自我」を取り戻すことが、コロナ禍リセットしたあとの令和時代のモチーフである。具体的にどうしていけばいいのかは、次回。