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「所有格の振り子」を揺らす 〜「彼女の新幹線」と「僕の憲法」

お疲れ様です、GWいかがおすごしですか?令和の男ことuni'que若宮です。

今日は最近ちょっと思いついて実験中のセルフマネジメント法について書こうと思います。それは「所有格の振り子」というものです。


異質性と同質性

そもそもなんでそういうことに思い至ったか、というと、自分のちょっと面倒な性格をなんとかしたい、というのがありました。

自分の面倒な性格というのは、「遠い人の異質性は受け入れることができるが、近い人ほど同質性を要求してしまう」というものです。

たとえば、uni'queという会社は「バンドスタイル」というマネジメントを実験しています。誰かが決裁承認するのではなく、メンバーそれぞれがそれぞれの観点で仕事を進めていく。

以前こちらの記事でも書いたように

VUCAの時代においては、異質性を同質化するのではなく、異質なままに組み合わせていく方がスピードもレジリエンスも高いと考えています。


社会としても、同質性が高く軸が一つしかない閉塞的な社会よりは、多様な軸がある方がいいと信じています。起業した理由や「アート思考」みたいなことも基本的に「社会の価値観の軸を増やしたい」というのが行動原理にあります。


しかし、このように「異質性」「多様性」ということを言っていながら、子供や家族などごく身近な人には、時々すごく「同質性」を求めてしまったりして、その癖をどうにか治したい、と思っていたのです。


身近な人への狭量さ

GW前半久々に実家に帰ったのですが、久しぶりに集まった家族と話した際、とあることで意見が合わず、喧嘩のようになってしまいました。


せっかく久しぶりに会ったのに、と妻にも諭され深く反省したのですが、実はこういうことが考えてみるとけっこうあって、ときどき感情的になりすぎてしまう時はどうも身近な人に対してのことが多いようである。

遠い人の場合、意見が違っても「ああ、そういう考え方もあるかな」と割と思えるのですが、身近な人だと「いや、こうだよ!」と狭量になってしまうのです。


たとえば、↓の永井さんのような、危険を恐れず人がなかなかできないことをしている人はとても尊敬するのですが、

もし自分の娘がいつか「ソマリアに行く」と言ったら全力で止めてしまうだろう。行かないほうがいい理由を息継ぎなしで100個くらい言えちゃうと思います。


遠い人の場合は直接の利害関係がないから寛容というかある種無責任でいられるというのもあるとは思いますが、僕の場合はさらに、

・大事に思う相手であればあるほど、その人のリスクに過敏になり、「自分の理解できる範囲」に固執し保守的になる
・親しい人だからこそ「自分の考えをわかってほしい」欲求が強くなる

といったあたりが原因のようです。


僕の・僕らの・彼女の

こういうのをつねづね治したいと思っていたのですが、最近やってみているのが「所有格の振り子」という手法です。いや、手法ですといってもそういうものがあるわけではなくて僕が勝手にそう呼んでいるだけなのですけど。


やり方は簡単。

まず、イメージとして、自分に近い方から「僕の」「僕らの」「彼女の」という所有格を置きます。そして親しい人に狭量になってしまいそうになったら、所有格を段階的に遠い方にずらしていってみるのです。

たとえば、夫婦間で子供のことなどでどうしても自分の意見を通したくなる時は、「僕の」というモードになってしまっていることが多い。しかし、当たり前ですがそれは「僕の子供」というのではなく、「僕たちの子供」です。そう考えると自分だけの意見ではなく本来「二人の」意見に到達しなければならない。そしてもっといえばそれは「彼女の子供」でもあるので、その観点からいえば、彼女の意見を実現することが大事ですよね。


たとえば旅行のときなど、予定通りにならないといらいらしてしまう男性って結構いるとおもうのですが、そういう時、「これは「僕の旅行」ではなくて「僕らの旅行」であるべきだ」、と考えると少し寛容になれます。そしてさらに、「僕らの」というのの中に「僕ではなく彼女の」がある、ということを思い出すことが重要です。彼女にとって楽しい旅行になることの方が自分の計画より大事。


実は「僕らの」という時、人はそれを共有的なものとして言いながらも、実際には自分の価値観をそのまま当てはめているしているケースが多いように思います。「僕らのためだよ」という時、この「僕らの」は「僕の」価値観を相手にも無条件に適用して複数形にしているだけで、「僕の=僕らの」のままなのです。


「彼女の新幹線」

帰省の行き帰りは新幹線でした。GW中ということもあって、小さい子供を連れた家族が多かったのですが、やはり小さい子はキャーキャー騒いだりぎゃんぎゃん泣いたりしちゃうのですね。

そのうちに、誰かが「新幹線はみんなの場所なんだから静かにさせろよ」というようなことを言い、母親が小さい女の子を抱えて申し訳なさそうに出ていきました。たしかに女の子は全く静かではなかったのですが、そこで僕は公共性ということについて考えこんでしまいました。


いまの日本では、「みんなの」というのを盾にして異質性を排除してしまう傾向がある気がします。日本の公共の場はときに狭量で閉塞的です。それは「僕の=僕ら」と同じように「こうあるべき」という自分の考えを無条件に他人にも押し付ける「僕の=みんなの」になってしまっているからではないでしょうか。


よく考えれば「みんなの」の中には、あの小さい女の子の、「彼女の」も含まれるはずです。新幹線はみんなの場所なのだから、「彼女の新幹線」でもある。彼女にも新幹線を彼女の思うように過ごす権利はあるはずです。こういう「彼女の新幹線」まで想いを馳せてそこから戻ってきてはじめて、「彼女の」を含んだ「みんなの新幹線」になる。


そもそも本質的には、誰かが誰かや何かを「所有」できるということはありません。たとえ実の子でも、同じ場所にいても、彼女には彼女の旅行があり、彼女には彼女のGWがあり、彼女の価値観があり、彼女の喜びや悩みがあり、彼女の人生があります。一緒にいないときはなおさらです。

そう考えると、本来所有できないにもかかわらず「所有格」で話すこと自体にある種のバイアスや誤謬の危険性がある。そのことを常に意識する必要があるのではないでしょうか。

あまりに自分主体で考えてしまう時は、一度ぽーんと所有格の振り子を遠い方に動かしてみる。そうすると視点がかわって狭量の罠から抜け出すことができる。


遠すぎたら近くに振ってみる

また、それとは反対に遠い振り子をこっち側に振ってみる、ということが必要なときがあります。


今日は憲法記念日ですが、ちょうど連休前に『俺が代』という演劇作品を観る機会がありました。

ネタバレもあるので詳細は書きませんが、日本国憲法というものが発話され、演じられるところに立ち会って、僕は「日本国憲法」に血肉をもったものとして出会い直した気がいたしました。憲法というものはそれまでどこか政治的な場所にある自分とは無関係なものだったのですが、それを当事者として、いわば「僕の憲法」として考えるようになりました。


近すぎて「自分事しすぎ」てしまうのと同じくらい、遠くのことは「他人事」になりがちです。そういう時は「所有格の振り子」をこっち側に振って「僕たちの」「僕の」と言ってみる。

たとえばセクハラやマイノリティのこと。たとえば育児のこと。たとえば、貧困のことや戦争のこと。それは「彼女の問題」ではなく、「僕らの問題」であり、そして「僕の問題」でもあるのです。


多様性というのは実はむずかしくって、「多様性」という言葉がエクスキューズになって思考停止したり、むしろイデオロギーの押し付け合いや排除につながっているケースもあります。

「僕の」「僕らの」に異質性を内包させておくのは難しい。それは常に同質化の危険をはらんでいる。多様性とは静的なものでなく、不断に揺れ動く「振り子」のような動的なプロセスではないか。

自分の思い通りにならなくてイライラしたら、そもそも「僕の」ものではないことを思い出す。それは「僕らの」ものだし「彼女の」「彼の」ものだと振り子を遠くに揺らしてみる。

誰かを他人事のように批判したくなった時は、「僕らの」「僕の」へと振り子を揺らす。政策の失敗や高齢者の事故が「僕の」ことだったらどうか考えてみる。


マネジメントにおいても、セルフマネジメントにおいても、狭量になる罠にはまらないために、時々「所有格の振り子」を揺らしてみようと思っています。

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