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インバウンドの光と影で消えていくこと―平凡と非凡(上)

コロナに罹患した。自宅の誰も滅多に使わない部屋に隔離され、これを書いている。日曜日から咳き込みだし、喉が痛くなり、発熱して、頭痛が激しくなり、近所のクリニックで、念のためコロナ検査をしてみましょう。10分待つと

コロナでした

はじめてのコロナ。月曜日から5日間、自宅待機、外出禁止。咳が止まらない、高熱が続く。39.5度がつづき、深夜に40.2度となった。頭痛が激しく、なにもする気力が湧かない。コロナを舐めていた。しんどい。自らコロナになって実感した

コロナ時代はまだ続いている、と


1 「外国人が評価している」という評価軸

コロナ感染が一見おさまったような見え方をして、あまり話題にならなくなり、新型コロナ感染症5類移行と円安効果で、外国人の日本へのインバウンドが加速して常態化しようとしている。コロナ禍と風景は一変した

日本の観光名所とか新たな話題スポットとか飲食店とかが、綺麗だとか面白いとか素晴らしいだとか美味しいと、外国人が喜んでいる姿の番組をよくみかける
 
番組で取り上げられる観光資源は、それ以前もあった。違和感は、その取り上げ方が「外国人が評価している」という軸で構成されていることである
 
外国人が評価しているから観光資源が成り立っているのではなくて、たとえば京都や鎌倉は、外国人が行こうが行こまいが、昔から現在も日本人の観光地であった。一方、外国人が普通の自動販売機が置いてある普通の市街地が美しいって言ったり、江ノ電のスラムダンク踏切に集まって写真を撮ったりしている姿を見ると、なんなんだろうと思う

とても違和感ある 

外国人がありがたがっているモノ・コト、美味しいって言っているモノ・コトは、 日本人からしたら、あまりに日常すぎて、なんなんだろうということがある。しかし外国人のお客さまが増え、経営的に重要なターゲットとなると、観光地もホテルも物販も飲食店も、外国人目線に商品やサービスを変えようとする

すると日本人は行かなくなる

2 平凡と非凡をわけるもの

このようにインバウンド外国人の行動が、平凡と非凡を分けるようなインパクトがある

平凡なものに、見方を変えたら
非凡なものに映ることがあり得る 

日本人が普通に食べている下町の商店街の饅頭を、突然外国人が買いに殺到することがある。1人の外国人にSNSで饅頭屋さんが紹介されたことで

平凡なものを非凡のものにした

世界でも広く展開しているラーメン屋さんは日本人からしたら普通のラーメン屋さんで、日本人は何時間も並んでまで食べに行かない。他の美味しいラーメン屋さんを知っているから
 
しかし日本に行くならば、このラーメン屋さんがお勧めと海外に発信すると、外国人は日本に行ってこのラーメンを食べねばと計画リストに入れる。日本人も海外に行ったら、誰かのお勧めサイトに誘導されるが、日本に来る外国人も同様の行動をとる
 
平凡なラーメン屋が、外国人がたくさん来るということで、非凡なものとしてクローズアップされる。しかし世の中には目立っていないが、美味しいラーメン屋さんはいっぱいある

なぜ平凡をもっと大事にしないのだろう

3 地道にコツコツの「平凡」が埋没する

平凡であることに、普通であることに、あたかもポテンシャルがないとか能力がないかのようなイメージがあるが、それは大きな間違いである
 
こんな商品が世界シェアを持っているという番組がある。外国人が包丁屋にインバウンドのお土産として買いに来ている風景を映して、包丁が世界で評価されていると報道する
 
そんなことは番組に取り上げられる前から、世の中の関係する人は知っていたし、その会社は300年以上そういう商売している。しかしその包丁屋さんの前を通ったときに、どれだけの日本人がそのすごさに気がついているのだろうか?

小さな古いビルの会社は、「たわし」を世界に売っている、それも世界シェアをもっている。その文脈や背景に、多くの人は気がついていない、関心もない

なぜならば平凡すぎるから 

しかしその平凡と言われる会社が、世界でシェアを獲得していたり、世界中から賞賛される技術力があったりする。ところがやっている当人は、自分たちの役割はうちの商売をやりきることだけだからと、欲がない

世の中の評判にとらわれず
地道にコツコツと取り組む 

ところが、企業も人材もそう。地道にコツコツ取り組む「平凡」を見くびっているような風潮がする

たとえば金融機関が、世界シェアを持っている、たわし会社が世界シェアを持っていると聞いたとしても、クローズアップするかというと、おそらく先入観、固定観念からそうしないだろう

たわしって、なんぼのもんやんねん? 

輸出もして、現地で受け入れられ、販売数量は伸びているのに、その会社のことを適当に扱う

4 社会的に注目されること

それまで地元の人以外は見向きをしなかったような平凡な風景を外国人が素晴らしいと言い出したら、日本人がすごいかもしれないと見直す観光地がでてきたりする
 
その観光地はマスコミやネットで言われようが言われまいが、昔からあった。その良さに日本人が気がついていないだけで、もしくは気がつく感性がなかっただけで、外国人がワーワー言い出した瞬間に

日本人にとって平凡だったものが
非凡のものに映る

自動販売機も、そう。日本人からすると何でもない自動販売機を、 外国人はすごいと喜ぶ。そうすると、日本人の自動販売機の見方が変わってくる
 

新幹線もそう。なんのことはない。日本人にとれば普通の交通機関なのだけど、すごいすごいとYouTubeなどに流す。日本人にとっては、とっくに平凡なものになっている事柄に、なにか外圧が加わると

非凡なものに見えてくる 

この平凡を突然、非凡に変えることが可能になったのは、情報発信の方法や発信の場が増え、簡単になったからで、この30年、いや10年で激的に変わった
 
かつて自分のことを世の中の人に伝える手段は少なかった。新聞に投書する、ラジオの番組にハガキを送るなど限定的だった。しかし今はいろんな手段で、メールでもXでもインスタなどいろいろなカタチで情報発信することで、注目されたり、バズったりして

平凡だった人が突然、非凡になる

これって考えたら、くだらない。わっと騒がれたからって、その人に能力があるわけではない。もともと面白い人だったが、社会的には平凡と思われている。ところがSNSをつかってコメントしたり、画像・動画を投稿したら、バズって、すげえと話題になるが、平凡な人である

だけど、バズったことによって、なにか 
特別な感じが出てくる

何にもなしていないにも関わらず、平凡な存在が突然非凡になる。このことが悪いと言っているのではない。そういうこと、そういう状況があるが、大事なことは

非凡ということを
誰が評価するのかである
だれも評価できない

ばあっと人気がでたら、非凡になる。人気が出ない時と、その人の力は変わったかというと、なにも変わっていない
 
たとえば池永は池永のままなのに、あるときnote日経COMEMOがバスることがあったら、池永って誰?いう話になる。バズろうがバズらまいが、池永は池永である。池永という人間を誰がどう評価できるかというと、だれも評価できない
 
社会的に注目されるのは一種の現象で刹那的であり、永続的なものではない。すぐ忘れられる

社会的に注目されることを
目標にしてはいけない 

社会的に注目されることを目標にするから、フェイクな情報を出したり、センセーショナルな画像や動画を流したり、飲食店で乱暴なことをしたり、紅ショウガを食べたり、特殊なやってはいけないことをして、その動画をつくって、みんなで拡散させ、バズらせる。小学生や中学生ですら、そういうことをして、社会的に注目されたい、目立ちたいと行動する

 それは、くだらない

情報発信してはいけないということでなく、それで社会的に目立とうと拡散して、誰かを傷つけたり、迷惑を与えてはいけないのだ
 
コロナ高熱で、これ以上書けないので、つづきは明日投稿する


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