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実際にNFT取引をしてみて感じた可能性

先月僕は、こう言う記事を日経Comemoに投稿しました。

これがたった2ヶ月前です。この時点で書いたように、僕の周りの写真家がNFTで写真を販売開始し始める人が出てきたなー、くらいのテンションでした。一方、この波はいずれすぐに大きくなることも予感していて、文章の最後にこんなことを書いています。

「リスクと不安を掻き立てるような文章だったのかもしれませんが、実は僕はこういう新しい技術が大好きです。NFTも早くちゃんと理解して、自分自身で使えるようになりたいと思っています。ぜひ多くの識者に、NFTの議論を活発化していただくことを願ってやみません。」

基本的に新しいことが大好きなので、なんでもやってみたくなります。一度今年の夏頃にOpenseaで出品をしてみたのですが、その時は周りで写真を売ってる人なんてほとんどおらず、またNFTの波もそれほど写真界隈にはきてなかったので、そのまま凍結してしまったんですが、上の記事を書いたタイミングで「そろそろほんとに来るな」と思ってやり始めたのが先月。そのタイミングは、まさに最初NFTの大波が目の前に迫ってる時でした。

実際、日本の経済の動向が如実に反映する日経の記事を見ると、NFTやメタバース関連の記事は、この2ヶ月ほどで一気に増えています。

(1)一見投機的に見える現状

そして現在です。クリエイターやコレクターの人たちにはもはや言わずもがなですが、凄まじい勢いで取引量が拡大しています。先日はついに、イラストレーターのケイゴイノウエさんの作品が10.30ETH(時価約600万円)で落札される現場を目撃しました。

そして僕自身も二つのNFTをそれぞれ落札していただきました。このように書くと、まるでゴールドラッシュのような投機的な状況がNFT周辺に形成されているように見えるかもしれません。実際そうなのかもしれません。ですが、その判断は少し待って頂きたいんです。外部的な目線では投機的状況がクローズアップされるように見えますが、参加者的視点、内部からの視点は、少し違った風景が見えています。今日はそのことを書きたいんです。

(僕の最初のオークション取引はこの作品↑でした。嬉しかったなー)

(2)NFT取引の内部から見える風景

僕はいろんな形で場に参入します。時に研究者として、時にただの傍観者として、そして多くの場合はクリエイターとして。最初に引用した記事は、まさに「研究者目線」でNFTという現象を俯瞰してみた時に感じる懸念を書いたものでした。その懸念に対しては、いまだに明確な答えを見出せていませんし、これから2022年にかけて、その解決法や考え方がさまざまに導き出されていくことでしょう。先日も弁護士の柿沼太一氏が、NFTにまつわる法的な概念整理をする素晴らしい記事を書かれていました。

https://storialaw.jp/blog/8344

こうした俯瞰目線も極めて大事で、僕もそういう目線を忘れないように自分に対して常に警告を発しています。

ただ、もう一方で、いつだって「内部」の見え方も、外部からの目線と同様に、同じくらい重要で、そしてその「内部」から見ると、外から見ると数年前の仮想通貨フィーバーのような投機的状況を思わせる現状に対して、また違った見え方があることに気づきました。その新たな光景の中では、SNSにおいては、多くの場合は消費されて消えていく運命だった自分の作品に、新たな命や役割が与えられたような気がするのです。デジタル作品に対して「一個性」を与えるNFTというシステムに自分の作品を置くことで、作品にまつわるレイヤーが増加する印象を受けました。その核心を一言でいうならば、クリエイターとコレクターが、一つの作品を通じてコミュニケーションできるということなんです。これまでSNS上では、基本的には一過性で盛り上がっては消えていく運命を強いられていた一つ一つの作品に、コミュニケーションのレイヤーが増える。今、NFTに参加してみると、そのような印象を受けるんです。

こういうふうに書くと、まだ参加していない人には全然通じない話になるだろうというのは予感しているので、もう少し噛み砕いて書きますね。

(3)NFTを通じて形成される新たな物語の可能性

SNSにおいては、写真は、その美しさのために一瞬で人の意識に止まり、そしてその印象が鮮烈であれがあるほど、逆説的に一瞬で電子空間の中で流れ去っていきます。時にバズを起こしたとしても、そのバズがもたらすものは、せいぜい数日の騒動。渦中にいるときは大事件にでも巻き込まれたようにひっきりなしに通知が来ますが、その荒波が消え去った後は、妙に虚しくなる静けさがやってきます。一体誰が、僕の写真を「見て」くれたのだろう?もちろん、バズをきっかけに自分のことを知ってくれる人、ファンになってくれる人、写真展に来てくれる人、そういう人たちがいることも忘れていません。ですが、SNSというシステムにおいては、そのあたたかい繋がりは一瞬で不可視の激流の中に飲み込まれていきます。その傾向はコロナで一層強くなりました。電子空間の激流の中で、個が個であり続けることは、本当に難しい。この2年そう感じました。その中では写真を見せるということも、極めて困難です。

写真に込めた思いや、撮影の困難さ、何が見るべきポイントで、どういうふうにしてそれを伝えたかったか。写真家によって、加えたい情報、見せたい情報は違いますが、共通しているのは一枚一枚には想いがあるということです。一枚の写真を撮るためには、その写真を撮るための準備があり、計画があり、ベストなタイミングがあり、現地での迷いがあり、そしてシャッターを切る時の祈りがあります。それらが一枚に集約することが写真の素晴らしい点ですが、集約しているからこそ、単純にその美しさだけが、過剰な情報流通の現場であるSNSでは「消費」される。そして消え去っていく

もちろん、中には何人かが、ちゃんと文章も合わせて読んでくれます。でも多くの場合、写真は、あるいは動画やイラストもそうかもしれません、ただ「刺激的なデジタル体験」として消費され、消えていきます。それは見ている人が悪いんではないです、SNSというシステムの宿命のようなものです。人間は、SNS空間の情報を全て咀嚼するには、あまりにもキャパシティが低いからです。

この3年ほど感じていたのは、この無限地獄のような状況を、僕らクリエイターはいつまで続けていくのだろうということでした、それを何度も僕は記事に書いてきたんですね。

そんな中、恐る恐る始めたのがこの夏のOpenseaであり、そして先月のFoundationでのNFT取引でした。最初は僕は、これらは「新しいSNSの一形態なのかな」と思ったんです。そのロジックで写真を流通させることがいいのだろうと。

でも実際に一枚の写真が売れる過程を体験すると、SNSの写真流通とは明らかに違うことがわかりました。一枚の写真には、必死に書いたdescriptionが記載されています。それは上に書いた「クリエイターの想い」そのものです。下手くそな英語を何度も何度も推敲して書きます。それを日本だけではなく、各国のコレクターたちが読んでくれます。なぜそんなに読んでくれるのか?それはもちろん、コレクターたちは自分でお金を出して、一枚の作品を、自分のコレクションに加えてくれるからです。一つの作品に託された時間と想いとをじっくり見極めないと、身銭を切って、しかも大半の場合は大金を出して、購入することなんて出来ないからです。

もちろん、そういう人たちばかりとは僕も思っていません。単純にもしかしたら、未来の投資のために購入されている方もいるかもしれません。でも、少なくとも僕が今見ている自分の周りの写真家たちとコレクターの関係は、投資や投機のレイヤーだけでコミュニケーションが進んでいるようには見えないんです。

あるひとは写真を自分のサイバースペースに展示してくれます。あるひとは継続的に自分のSNSを追うようになってくれます。時に新たにそこで会話が発生します。その会話の中で、自分の作品がなぜその人にとってコレクションに追加するのに値するのか、その理由や意味や動機がわかってきます。そのようなコミュニケーションは、バズを中心にした消費型のSNSの流通においては無し得なかった作品との付き合い方です。そしてレイヤーとかコミュニケーションとか難しい言い方をしていますが、つまりはこれは、NFTというシステムを媒介にして作り出される「新たな物語の創出」とさえいうことが出来ます。物語とは、畢竟、世界そのものなのですから。

(購入した僕の写真を展示してくれている空間です)

(4)SNSとNFT、公共交通機関とローカル駅

一つの作品が、NFTという形で流通することによって、コミュニケーションのレイヤーが増えていく。これはかつて、古き良きプリント時代に、写真家とそのコレクターとの間で交わされていた暖かな交流がこういうものだったのかもしれません。ただ、一点違うのは、NFTはやはりSNSとも紐づいているということなんです。この記事で今僕は、SNSをまるで悪者のような書き方をしたんですが、実際にはNFTはSNS上で可視化されることで、初めて売買のための入り口を得ることができます

つまり、クリエイターとコレクターの双方にとって、SNSは公共交通機関みたいなものです。情報を一気に流通させるための、必要な乗り物。時々起こるバズは、いわば駅のでっかい広告みたいなものです。乗っている人みんなが目にして、やいやいと感想を述べ合う。時々じっと見てくれる人がいるけど、みんなさっとその前を通り過ぎる、超巨大広告。それがSNSとバズです

一方NFTは、その超高速情報流通空間であるSNSに入口だけが作られている、小さな、個人向けの駅みたいなものです。わざわざその駅で降りてくれた方は、ローカル線の旅をしているように、その駅周辺の風景や特産物を楽しんでいきます。そして気に入った人は、その場所をとても大事に扱ってくれる。僕にもそういう場所がいくつもあります。そしてその場所では、人と人がゆっくりとコミュニケーションを作ります。全ての速度が、大都市の流通とは速度や意味が変わります

こんなふうにして、僕はこの最初のNFTの波の中で、SNSの宿命のような「コモディティ化」とは違う可能性を感じました。もちろん、これが単なる一過性の「休息地」になる可能性は大いにあります。いずれNFTもまた、現在のSNSのように、過剰な情報流通空間へと変貌していくのかもしれません。ただ、今のところは、しばらくこういう「あやしくも楽しい状況」が続くだろうなあと感じています。法が整っておらず、参加者全員が「あるべき未来の姿」を考えている状況だからです。まるでそれは、1995年頃のネット空間のようでもあります。みんながやいのやいの集まって、夜な夜な「ネットの未来」を探していた、あやしく、危うく、みんなで助け合いながら可能性を探っていたあの空間。

というわけで、「NFT参加者レビュー」の第一回でした。第二回のレポートは、またいずれもう少し先に。売り上げが10ETHくらい貯まったら書こうかな。

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別所隆弘
記事を気に入っていただけたら、写真見ていただけると嬉しいです。 https://www.instagram.com/takahiro_bessho/?hl=ja