これからの社会と幸せの真実:「新たな階級闘争」を超えて

 20世紀は、テイラーに始まる業務の「標準化と横展開」が広く実践され生産性を飛躍的にに高めた時代であった。さらにこれを発展させたのがコンピュータや生産機械であった。標準化されたルールをプログラムに記述することで、コンピュータは、その処理を高速かつ低コストで実現した。この標準化と横展開という考え方は、20世紀という交通、エネルギー、通信、家電などの社会の基盤が大規模に構築された時代に合致したものだった。
 しかし、この生産性向上ゆえに、今世紀に入るころから社会は大きく変わった。生産性向上による経済的余剰は、生きるための基本的なニーズは満たされた人々、即ち「中間層」を大量に生んだ。そして、この中間層は、より高次の要求を持つようになった。より高次の要求は、個人ごとに多様で、短期で変化するようになった。このため、皮肉なことに標準化や横展開では答えられなくなった。
 その結果、二つのことが起きた。まず第一に起きたのは、この変化や多様性に従来の延長で応えようとする動きである。標準化や横展開で対応できないことは、人の柔軟性で応えることが試みられた。人は、機械に比べ、柔軟で、多様な状況に対応できるからである。その結果、大量の「サービス労働」が生まれ、先進国のサービス労働の比率は急速に増えた。例えば、日毎に機種や商品がめまぐるしく変わるショップの店員であり、さらにeコマース用の倉庫作業者や物流作業者である。これは常に柔軟性が求められ、すべてを機械化するのが難しいため、人力に頼らざるをえない。規模の生産性を追求するため物流やバックエンド業務などのアウトソーシング企業が拡大した。
 しかし、これには大きな問題があった。まず、労働の付加価値が低かった。結果として、報酬も社会的な地位も低い人が社会に増えた。そしてこれが、社会に格差を生む原因になった。日本は主に、この第一のアプローチにこだわった結果、世界の中での経済的地位が相対的に低下し、そして格差が拡大した。
 第二に起きたことは、インターネットなどのITを活用し、データや知識によって「変化と多様性」に応えることである。この新しいアプローチには、主に、米国の起業家が挑戦した。例えば、検索サイトは、個人の今知りたいというニーズにウェブからの情報提供で応える一方で、その情報を使って、サービス業者と需要者である個人をマッチングした。その結果、この20年間にGAFA(Google/Amazon/Facebook/Apple)と呼ばれる国家をも超える経済規模の巨大ビジネスに成長した。まずは、ネット上に載りやすいマッチングビジネスから、このアプローチは始まったが、これが今後、製造業、交通、エネルギー、医療などの、よりリアルで責任が重いビジネスに拡大することが期待されている。
 この第2のアプローチの主導原理は「実験と学習」である。変化や多様性に応えるには、何が効果的かは現実にやってみないとわからない。だから「標準化」したルールを「横展開」するのではなく、常に実験し学習することが必要なのである。もちろん、現実の顧客への責任を伴う事業活動においては「実験」の機会は限られる。だからこそ、その実験のかなりの部分をコンピュータ上においてデータを使って行うことで、少ない実験で多くを学ぶのである。それこそがAIやデータの役割である。この「実験と学習」を、データやAIを的確に使って進められる経営者や労働者は、経済的にも高い報酬を得、社会的地位も高くなっている。これが今後格差を拡げる原因になると懸念される。
 ピーター・ドラッカーは、『ポスト資本主義社会』(1993年)で、この高付加価値を生む知識労働者の層と、低付加価値のサービス労働者の層との間に生じる「新たな階級闘争」が、今後の最も大きな社会課題となることを指摘した。「サービス労働の生産性の向上こそ、ポスト資本主義社会において、最優先の経済的な課題であるとともに、最優先の社会的な課題である」。カール・マルクスが歴史的な必然と予測した「資本家と労働者」との階級闘争は、テイラーに端を発する生産性向上によって回避できた。今、別の形の階級闘争が現実になることが懸念される状況なのである。
 この新たな階級闘争を回避するために何をすべきだろうか。それはサービス労働の生産性と社会的尊厳を高めることある。そのために、サービス労働者を知識労働者と一緒に「実験と学習の主役にする」ことである。
 重要なことは、データや情報の活用には、二つあることである。第一が、既に知っていることを正しく行い、間違わないようにすることとである。これを「活用」と呼ぶ。第二は、まだ見ぬ未知の可能性を見つけることである。これを「探索」と呼ぶ。この両者は全く異なる。多くのAIの活用の議論では、この区別がなされていない。この変化と多様性の時代には、「活用」は必要なことではあるものの、それでは付加価値がつかなくなったのである。価値を生むのは「探索」である。
 今必要なのは、未知の可能性を見つけることである。我々の前には無限の可能性がある。物質もエネルギーも有限である。地球の資源も有限である。これを物理学では、熱力学第一法則と呼ぶ。一方、我々の未来の可能性は無限である。可能性の広がりは、順列や組合せの爆発的な拡がりによって、ほぼ無限である。有限の資源から無限の可能性が引き出せるのである。これを物理学では、熱力学第二法則と呼ぶ。 
 我々は限られた経験から、ガイドラインを決めたり、ベストプラクティスを決めたりしている。多くの場合、これは我々の可能性を自ら制約している。囲碁で、コンピュータが人のチャンピオンに勝利した時に、我々は、これを目の当たりにした。コンピュータの打ち手は、序盤から盤面の中央部に打つなど、従来の定石や常識から大きく逸脱していた。そして、それは強かったのである。我々は定石や常識に自らを縛り付けることで、無限の可能性のごく一部しか見ないことにしていたのである。この限界を作ってきたのは、我々自身であり、広い意味で「標準化されたルール」である。
 来る社会とは、全員が未知への探求者になるということである。そして仕事を通して、未知の可能性を開拓する人となり、社会から尊敬され、自らも尊厳をもつようにすることである。これは同時に、標準化された知識を横展開したり実行するだけの仕事は作ってはいけないということである。それは新たな階級闘争を生む社会悪の原因なのである。
 ただし、これは容易ではない。AIやデータで機械的にできることでもない。特に、難しいのは、いくら情報技術が発達しても、一人の人間が持ちうる情報や知識には限界があるので、多様な人同士が協力して、目的を達成する必要があることである。
 先日、私の周りで仕事上で、ある問題がおきた。関係者が4人いた。一人目にヒアリングすると、それは別の人が勘違いしたからではないかという。ところが、その別の人にヒアリングするとそのようなことはしていないし、そのような疑いを持たれるのは心外だという。さらに残りの2人にそれぞれにヒアリングすると、それぞれが違うことをいう。4人をヒアリングしてみて初めて私にはわかった。真実は、4人の話しているどれとも違うことに。まるでアガサクリスティの小説のような展開である。4人とも、私の質問に誠実に答えてくれた。ところが、よく聞いてみると4人とも、部分的な情報しか持っていないので、自分が知ららないところを推測で理解していたが、その推測のどれもが結果的に見ると違っていたのである。4人全員が自信をもっていたのは、自分はその問題の原因ではないこと。従って、その原因は他の人にあるということであった。
 これこそがコミュニケーションが必要な理由である。しかも、実験と学習によって未知の可能性を追求するとき、このような複雑で、各自の情報では的確にできない判断が次から次に必要になるのである。この各人のもつ情報や知識のギャップを埋めることが常に必要になる。
 実は、このようなギャップを前にしたときの態度は、二つしかない。自らがギャップを埋めることに責任を持つか、その責任を周りに押しつけるかである。前者を「協創」(Cocreate)とよぶ。後者は二つの形態として表れる。一つは、相手に無条件に従う「追従」(Follow)で、他方は、相手を疑い、その原因を押しつける「懐疑」(Skeptical)である。実は、いずれも周りに責任を押しつける点は変わらない。必要なのは常に「協創」である。周りとの関係性に自分が責任を持つという姿勢である。それ以外の「追従」も「懐疑」も、組織と社会を壊す病気である。
 我々は、この周りとのよい関係を主体的に創る行動には、身体運動に特徴が現れ、それはセンサーにより数値化できることを見出した。これにより科学的な知見により社会問題を解決したいのである。
 もちろん、協創には精神的エネルギーが必要である。しかし、それにあえて挑戦することが、実は自らの幸せに必要なのである。この人や仕事とのよい関係を、自ら主体的に作り出すことに責任を持つ人には「持続的な幸せ」が得られ、同時に生産性も高いことが知られている。
 心理学的には、このような行動の背後には、共通の要因があることが研究されている。それがフレッド・ルーサンス教授が提唱し、多数の科学的な研究によって裏付けられた「心の資本」(Psychological Capital)という概念であり、数値指標である。
 「心の資本」は、4つの要素からなることが知られている。一つは"Hope"であり、自ら道を見つけることをいう。第2は"Efficacy"であり、その道に踏みだすことをいう。第3は"Resilience"であり、たとえ困難にあっても立ち向かうことをいう。第4は、"Optimism"であり、複雑な状況を、ポジティブなストーリーとして捉える力をいう。このHERO(という省略形もうまくできている)が「持続的な幸せ」と「パフォーマンス」の最も根源にある要素なのである。
 子供の頃、私は、母親にことある毎に「為せばなる為さねばならぬ何事も」と言われた。家内に聞くと、家内も同様だという。私が育った1960年代から70年代は、多くの親は、この言葉を子供に言い聞かせてきたのだと思う。この「為せばなる」は上記の「心の資本」(=HERO)と重なるところが多い。その当時は、今と比べて、物質的には、決して豊かではなかった。しかし、豊かな「心の資本」に満ち、HEROが多かったのかもしれない。このような考え方は、豊かになるにつれ「精神論」「根性論」と一蹴され、急速に薄れていった。
 今、これからの社会で大事なのは、あらゆる人が「実験と学習」を実践する「探索者」となることである。それはあらゆる人が「HERO」になることである。これにより、最大の社会課題である、知識労働者とサービス労働者との階級闘争を超えていくことができる。それは意外にも、この40年、我々が忘れかけた「為せばなる」を今の時代に思い出すことではないかと思うのである。

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