お洒落マスクは「洗練された深い」意思表示か?ー東西ドイツ統一30年に政治とファッションを考える
今週、ミラノ市内のカフェでドイツ人の友人と話しているとき、ぼくのスマホに入っている、このトップの写真を彼に見せました。「この間、ブルネッロ・クチネッリのコレクションの発表をショールームに見に行ったら、服に合わせたお洒落マスクじゃなくて、薬局で売っている機能的なマスクをやっていたので感心した」とぼくは話したのです。
そしたら案の定、彼は「そう!この写真が示唆することは大きい」と声を荒げます(このご時世、唾を飛ばされると困るのでヒヤヒヤですが 苦笑)。そして、ドイツの最近の動きを嘆きます。マスクに象徴される管理体制を推進する政府に反発が大きい、というのです。
「我々こそが人民だ」。30年前に若者がひしめき、再統一の喜びを爆発させたベルリンのブランデンブルク門。8月末に周辺に集まった数万人規模の群衆のデモから、ベルリンの壁崩壊の原動力にもなった当時のスローガンが飛び出した。
まったく同じスローガンだが、放つ意味は30年で激変した。当時の批判の矛先は旧共産党の独裁体制へ向いていたが、今は新型コロナ封じ込めを進めるメルケル政権に向く。30年前のドイツ統一を象徴した民主化の合言葉は政府への反感をあおる極右の言葉へ転じた。
さて、30年前の東西冷戦の終結の「その後」に関するこの記事を引用したのは、欧州各国で目立っている極右的な動きに特に理解を示すためでも批判するためでもありません。ちょっと意外かもしれませんが、「洗練する」とか「深い」という表現が意味するところが何なのか?をテーマに話すためです。
結論を先に言うと、ブルネッロ・クチネッリが新しいファッションを発表する際に、社長(トップの写真の右端の男性です)が機能的なマスクを自ら身に着け、モデルやスタッフ全員にその方針を徹底させたことは、洗練された表現で深い意味を提示していると思います。彼は「マスクは機能しなければ意味がない」と、ぼくの質問に答えてくれました。
(因みに、ブルネッロ・クチネッリはイタリアのファッションメーカーで、創業からおよそ40年ほどですが、ブランド力としてフランスのエルメスと同等とランクされ、地元や従業員、あるいはファッションに対する考え方から、「人間中心資本主義」と称されている企業です)。
そして、ぼくは、人々がこの2つの表現を「生理的に(!)」好む社会が良いだろうと考えています ― というところで、上の記事の内容にも関係してくるのですが・・・。
どうして「深い」に拘るか?
まず、ぼく自身の価値判断の基準を説明しておきます。大学生の頃から、ことあるごとに参照する基準です。以下です。
1)「軽い」と「重い」の2つがあれば「軽い」を方向として選択
2)「浅い」と「深い」の2つがあれば「深い」を方向として選択
つまり、目指すべきは「軽い」「深い」という方向です。「あいつ、軽いよ」「言葉が軽い」とのセリフから「軽い」を否定的に捉える見方があることがわかります。あるいはデザインでも「重厚さ」を良しとして大理石のような重量を重んじる傾向が、特に西洋文化にはあります。しかしながら、ここで指す「軽い」は、「軽妙」や「軽快」からくるイメージを指しています。
先月に翻訳出版したエツィオ・マンズィーニ『日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』においても、マンズィーニは「軽さについて語るべきことは多い」と書いています。言語表現でも素振りでも、あるいは人とのコミュニケーションにおいても軽い方が柔軟だし、可能性が広がりやすいです。腰が「重く」ては人とのつながりは広がらないでしょう。因みに、マンズィーニが「軽さ」として引用しているイタロ・カルビーノが使っている比喩は、羽根のようなフワフワした軽さではなく、鳥が空を飛ぶような軽さ、です。
この「軽い」が、このコラムの後になって効いてきます。
一方、「浅い」を肯定する表現はあまりないです。「浅薄」や「表層的」という言葉にみるように、褒め言葉からは極めて遠い位置にあります。だが、「深い」は「深淵」にみるように、高い評価を安定的に得ているといえます。しかし、一体、「深い」とは何なのか、もう少し考えてみます。
垂直の動きがある「深い」
当然ですが、「深い」は垂直をイメージします(水平は「広さ」を導きます)。深い経験や知識といえば、年数を経て経験や知識を重ねてきた結果であるといえます。深い思考ならば、ある決まった領域を多角的に掘り下げた思考ということになります。即ち、絶対的なある一定の時間やプロセスを深いは必要とします。
まず視点をなるべくたくさんもち、それぞれの視点からある状況について検討する。「いや、これでは群盲象を評すではないか?」と常に自分が把握しているステイタスを省みながら、より高い精度でものごとをおさえようとするのです。つまり立体的な見方を獲得するわけです。これが深さに通じます。
あらゆるポイントからのさまざまな批判や疑問に対し、即答とは言わずとも、「こんな感じで考えている」「曖昧な言い方であるが、この方向で考えていると言って適当だと思う」との言葉を返す力であるとも言い換えられるかもしれません。垂直の動きを含むので、よりコア、あるいはものごとの「根元」に近くなるとも言えます。時代を超えて普遍的に認められた価値や見方により接近する、または繋がります。
もう一つ。深さは個人的な動機とも強い縁を築いています。いわば人間の性も包括するところに位置するし、他人に何らかの行動を促すことが多いです。浅いことでは人は動きませんが、深いことならば、その人の動機と普遍性ともつながるので一歩前進する瞬間をつくります。なによりも、行動が長続きします。
洗練さはごまかしではない
洗練さは往々にして否定的な意味で修辞的であると見なされます。これが深さと洗練さは直接つながるにもかかわらず、場合によって、距離を感じさせる要因になります。時に修辞的であることは、浅いことを浅いと感知させないための工夫だと思う人もいるからです。
実は、そうではなく、深さをつくる複雑な経路を分かりやすく見せるために修辞は活きる、と考えるのが妥当だと思います。即ち、修辞の肯定的な捉え方が、つまりは洗練さが、深さが深さゆえに埋没してしまう状況を救うのです。そして、複雑ないろいろな経路や結節点を軽やかに動き回ることで、洗練された表現が可能になるという点で、前述した軽さは大切です。
言ってみれば、一見、通じやすいと思われるキャッチフレーズは、それなりの機能はするが、どこまで人の想いや考えを変えられるか?という問いをするに、洗練さや深さを見ずに、この課題に先はないだろうということです。
お洒落マスクは「洗練された深い」意思表示か?
ここで冒頭の話に戻りましょう。
服やネクタイなどとマスクの色や柄が一致することが、パンデミック時代に適合している印である、との見方があります。少なくても、これまでマスクの習慣のなかった欧州の人々の間には、マスクへの抵抗感をどう自分の内で処理するかとの障壁があります。
パンデミックといえど、政府の指示に全面的に従うのは気が進まない。これが記事にあるようなドイツのありように出ているわけです。だが、表だってそう反対しない人のなかに、いくつかの自己表現があります。新しい状況に適合していることをアピールするためにお洒落マスクをする、というのも一つ。どうしてもマスクがイメージとして発するネガティブさが受け入れがたく、お洒落マスクで自分をごまかす、というのも一つ。
もちろん、政府の指示への反発とは別に、自らの審美眼に叶わないからとの理由でファッショナブルなマスクを選択するパターンもあります。いずれせよ、デザインによって障壁や敷居の位置の移動や意味を変えようとするのです。
他方、自分のコミュニティにいる人々のことを考えるならばマスクを着用するのを当然として受け入れ、しかもこの点の自己主張に無理せず、マスクを機能として優先する人たちもいるわけです。より価値をおくべきは、全体像としてのファッションを巡る態度である、と考えていることになります。
どの選択が優れるかどうかではないですし、その選択は時間の経過と共に変わることもあります。ただし、目指すべき「洗練された深い」道は、反射的反応とも称することも可能な、マスクへの全面反対やお洒落マスクで自己弁護を図らないところからスタートするのではないか、と思います。これが、ぼくがドイツ人の友人と意見の一致をみたところです。
簡単な道ではないです。だが、人気取りの受けやすい政策しか機能しない世界を拒否する唯一の道ではないかとも思うと、挑戦するに値する方向だろうと考えています。
写真@Ken Anzai
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