「座右の銘」のつくり方ー面白い仕事をつくる際の礼儀作法
「私の座右の銘」とか「私を変えた1冊の本」という特集をメディアでたまに目にします。そういう時、そんな一言や一冊で人生が変わるほどに精神的に貧しい人生を送っていないーーという気になります、ぼくは。
ただ、これは一言や一冊が大切でないということではなく、それらが色々と織りなしたところにカラフルな人生が浮上する、ということでしょう。
古典として評価の高い本も、どこか何か所かにピンとくるフレーズがあり、それで「そうか!」と思う。それらが自分の内にじょじょにたまってくると、それらの一つ一つが自ずと繋がりを求めるようになり、それらのうちの一つか二つが鍵のように思えてくるーーそれが座右の銘だったりするのだと思います。
筑波大学・永田恭介学長の上記の座右の銘は自分でつくりあげた印象があるのをみると、やはり、統合された言葉なのだろうと想像します。
自分自身でこのような言葉を獲得していくには、ちょっと意外かもしれませんが、気になる言葉は浮遊させておく、固定させないのがコツだと思います。あるいは、自分の行動に繋がりやすいように動詞としてもっておく。
ここで、ぼくが以上のことに気づいた経緯を書いておきましょう。
ぼくが東京での大企業サラリーマン生活をやめ、イタリアで生活をするようになった経緯は10数年前にブログに書いたことがあります。「ぼくの歴史を話します」というタイトルです。
実は、トリノで働きはじめた際にボスから言われたことは「野武士になれ」でした。今、思うと映画監督の黒澤明とつきあいの深かった彼なりの表現だったのかとも想像しますが、その時のボスの説明によれば、例えば「大企業にいた君はプロジェクト企画書を用意するのが仕事だと思っているだろう。企画書なんて最初に書くな。どうしても必要になった時に用意すればよい」。
準備万端を目指すな、と解釈もできます。あるいは、プロジェクトがうまくいくための勘を研ぎ澄ますことこそに時間とエネルギーを使え、とも。
プロジェクトが動くかどうかは千三つの世界なので、なるだけたくさん関与しておき、あとは水面にあっちこっちに浮かんでいる釣りのウキをみるように、じっと観察せよ、です。
そして、ウキに動きが出たら、突っ込んでいけばよいのです。往々にして大企業のサラリーマンは糸を垂らすところで企画書を用意せねば、と思ってしまうのですね。そこを指摘された訳です。
感覚としては、人の身体はほぼ水で構成されているのだから、身体を揺らすことで、いろいろな言葉の意味も繋がりも変わっていく、というところでしょうか。
これが、行動を起こしやすくします。誰か偉い人の言葉を後生大事に抱え込んでいるだけだと、使い勝手が悪過ぎます。人の言葉を自己の血肉にするには、人の言葉を引っ張ったり、カタチを変えてみたりする。そのためにも、言葉の液状化が好都合なのです。
だから、自分の言葉、あえて言えば、座右の銘は自ら生成させたものであること、これが面白い仕事を作っていくに際しての「礼儀作法」かもしれません。面白いことへの礼儀としてーー。
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冒頭の写真はトリノ自動車博物館の一コーナーです。フェラーリの過去から現代に至るまでのF1のマシーンがスターティンググリッド風に並んでいます。フェラーリも時代時代で自分たちだけの言葉を作ってきたのだろうなあと思います。