同じ言葉だけど内容が異なる「人的資本」の今と昔
注目を集める人的資本
今年に入ってから、急にメディアで注目されるようになった人事用語として「人的資本」がある。
人的資本とは、人材を組織の持続可能な発展のために最も重要な「資本」としてとらえ、人材の資本価値を向上させることによって、経営目的や企業価値の向上を図るものだ。従業員を人件費というコストではなく、価値を生み出す源泉として捉えて、積極的に投資すべきだと考える経営戦略である。
欧米を中心に、海外では日本より先んじて、人的資本を測定する指標で数値化し、広く公開することが一般的になりつつある。人的資本を開示することで、投資家の判断基準に活用されたり、採用時に人材を惹きつける魅力となる。
人的資本は古い歴史を持つ
このように、新しい概念のように扱われている人的資本だが、その言葉自体は古くから使われている。長く人事の業界に身を置いていたり、研究してきた専門家からすると「今更、人的資本なの?」という感想を持つ人も多い。
それでは、人的資本について、どのように議論がなされてきたのかについて歴史を見ていきたい。
人的資本の重要性について、直接的に扱った黎明期の研究は、1961年に The American Economic Review で公開されたセオドア・シュルツの "Investment in Human Capital" だ。この論文の中で、シュルツは人材への投資が経済成長の原動力になると主張している。同じ時期の1962年には、もう1つ、ゲイリー・ベッカーによって、 Journal of Political Economics にて発表された ”Investment in Human Capital: Theoretical Analysis” も人的資本に関する古典的な研究として知られる。また、1988年に American journal of sociology にてジェームズ・コールマンによって発表された "Social Capital in the Creation of Human Capital" だ。コールマンは、高校中退の過程に着目し、高校2年生までに人的資本に投資し、家庭内外の社会関係資本が形成されることで中退者を減らすことに繋がると述べている。
このように、経済学を中心として、教育分野をはじめとした様々な領域で人的資本は注目を集めてきた。しかし、ビジネスの分野で人的資本研究が本格化するのは21世紀に入ってからになる。20世紀までのアメリカを中心とした欧米企業の人事戦略は、内部の人材に投資をして育成することよりも、社外から人材を採用する外部登用に重きを置く傾向にあった。しかし、産業構造の変化と製造業の衰退、急増するIT人材のニーズなどの外的要因が影響して、人材に投資して競争優位性を獲得するという人事戦略に移行し始める。
また同時期に、経営学ではリソース・ベースド・ビュー(RBV: resource based view)という概念に注目が集まる。RBVとは、競争優位の源泉を企業内部の資源に求めるという経営戦略だ。概念自体は、1984年にバーガー・ワーナーフェルトによって Strategic management journal で発表された論文 "A resource‐based view of the firm" で紹介されている。広く知られるようになったのは、1991年に、ジェイ・バーニーによって Journal of management で公刊された "Firm resources and sustained competitive advantage" が契機となった。
人的資本は、競争優位の源泉を組織内に求めるというRBVと結びつくことで、人的資源管理論の中核的な概念として扱われるようになる。90年代半ばまでは、人に関する経営学は労務管理や人事管理と呼ばれ、従業員はコストに近く、働き方を管理するべきものという概念が中心的だった。それが、人的資本やRBVと結びつき、競争優位の源泉として考えるようになった。また、神戸大学大学院の上林教授は「人的資源」という言葉には日本語元来の意味よりもポジティブな性格が強いと述べている。英語で Resourced Person というと鍵となる重要な人物というニュアンスを含む。Human Resource Management という人的資源管理論の原語には、経営を左右するキーファクターとしての人材マネジメントという性格を帯びている。
この頃の人的資本という考え方は、日本企業の経営と相性が良いと言われてきた。日本的経営の特徴である、長期雇用と低い離職率、企業特殊的技能の習熟、柔軟な人事異動といった要素は、競争優位の源泉を組織内の人材に求めるというRBVに大いに当てはまった。同時に、未経験者のまっさらな状態の新卒学生を10年間かけて一人前に育て上げるという教育投資で、人的資本の価値を高めると考えられてきた。
しかし、2010年代頃から人的資本に関する事情が変化してくる。
人的資本の「標準化」「データ化」「透明化」
リーマンショック以降、欧米を中心として、給与などの待遇よりも仕事を通してどのような成長を遂げることができるのか、何が実現できるのか、社会にどれだけ貢献できるのかといった、キャリアに関する事項が人材獲得において重要視されるようになってきた。また、急速なデジタル化やテクノロジーの進化、グローバル化の進展によって、既存のビジネススキルが陳腐化するスピードも速まっている。このような状況の中、ますます、企業経営において人材の質が及ぼす影響が大きなものになっている。
このような状況を受け、2011年にスイスに本拠を置くNGO International Organization for Standardization(ISO)は260番目のISO技術委員会を発足させた。2014年には、EUが非財務情報開示指令(NFRD)において、「社会と従業員」を含む情報開示を義務づけている。また、2017年に米国の機関投資家がSEC(米証券取引委員会)に対し人的資本に関する情報開示を求めるロビイングを開始したことを受けて、2020年に雇用者数を含む登録者の人的資本の説明をルール化した。
ISOに関していうと、2019年に人的資本マネジメントに関して、社内議論用・社外開示用のガイドラインを整理(ISO30414)している。日本では、2021年に6月改訂の企業統治指針に人的資本関連の情報開示を求める部分が追加され、政府主導で指針作りが行われている。
2010年以降の人的資本に関する変化をまとめると以下の3つになる。
① 標準化:ISO30414をはじめとした評価基準の国際的な統一
② データ化:人的資本の状況を測定し、データで分析する
③ 透明化:データを公開し、人材や資金などの経営資源獲得に活かす
2010年以前の人的資本に関して、日本企業は比較的相性が良いといえる部分もあった。一時と比べて衰えたとはいえ、まだ世界第3位の経済大国であり、大企業の数や企業寿命の長さは世界に誇るところがあった。しかし、人材に関する情報の「標準化」「データ化」「透明化」は日本企業の苦手とするところだ。
日本企業の伝統的な人のマネジメントは、組織内で継承されていく暗黙知によるところが大きく、属人的な職人技で賄われてきた。これらの特徴は、「標準化」「データ化」「透明化」と相性が悪い。しかし、世界的な人的資本の流れに取り残されると、日本企業のガラパゴス化が進み、グローバルビジネスで戦うことが難しくなる。
現在の日本企業が直面する人的資本の課題は、これまでの属人的で暗黙知に支えられてきた日本的人的資本経営と決別し、国際標準の中で戦っていくかの決断を迫られているともいえる。そういった意味で、日立製作所や富士通をはじめとしたグローバル企業で、いち早くISO30414への取り組みがみられるのは当然の流れと言えるだろう。