ECBの「抜かずの宝刀」は「抜けない宝刀」~イタリア買いの限界はどこに~
「ドイツを売ってイタリアを買う」は鮮明
ECBは7月21日の政策理事会で一部加盟国の利回り高騰(域内金融市場の分断化現象)を念頭に伝達保護措置(TPI:Transmission Protection Instrument)の導入を決定したました。これにより流通市場において当該国の国債や地方債を際限なく購入できることに一応はなっています。「一応は」と枕詞を付けたのは、TPIの発動条件が余りにも厳格であり、金融市場では「恐らく使われないだろう」という思惑が根強いためです:
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB225JM022072022000000/
当のラガルドECB総裁も記者会見で「(TPIは)使わない方が良い」と述べています。かつてドラギ元総裁が「なんでもやる」との主張と共に導入した無制限国債購入プログラム(OMT)がそうであったように、「抜かずの宝刀」として機能することが期待されていそうです。ただし、「使えない」と見好かれたスキームの下、懸案のイタリア10年債利回りは高止まりしています:
TPIを「抜かずの宝刀」と位置付けたうえで、分断化対応策に関して、ラガルド総裁はパンデミック緊急購入プログラム(PEPP)の柔軟性を活用することが「最初の防御壁(the first line of defence)」だと明言しています。このため、当分はECBが2か月に1回公表するPEPPの運用状況が注目することになります。PEPPの柔軟化は実態としては「健全国の国債の償還金を脆弱国の国債に再投資する」ということです。PEPPの新規購入は今年4月以降停止しているため、発表される運用状況の注目点は「どのように再投資され、リバランスされているのか」という一点に絞られます。PEPPの運用状況は2か月単位で公表され、8月初頭には6~7月分の再投資状況が公開されています。
公表資料を見れば一目瞭然ですが、6~7月はドイツやフランスやオランダの国債が大きく売られる一方、イタリアやスペインやギリシャの国債が大きく買われ、既に再投資の柔軟化は着手されていることがわかります。具体的な数字を見ると、特にドイツ国債の売り越し額は▲143億ユーロで、イタリア国債とスペイン国債の買い越し額合計+157億ユーロと概ね釣り合うイメージになっている:
PEPPの新規購入が停止している4月以降の4か月間で見ると、ドイツ国債とフランス国債とオランダ国債で▲177億ユーロが売り越しされている一方、イタリア国債とスペイン国債とギリシャ国債で+160億ユーロが買い越しされています。これら5大国(ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、オランダ)の国債を売買することでバランスシート規模を維持していることが分かります(これに加えてギリシャ国債なども買われています)。とりわけ「ドイツを売ってイタリアを買う」は鮮明です。
資本金出資比率からの乖離はどこまで耐えられるのか
問題は特定国の債券を対象とする再投資を続ければ、ECBの資産購入を縛っている出資金比率(capital key)を逸脱するということです。PEPPに限らず、ECBは資産購入の際は各国がECBの拠出している出資金の割合(出資金比率)に準拠して国別購入量を規定しています。上述してきたように、「健全国を売って脆弱国を買う」というリバランスを意図的に進めれば、当然ながらECBの保有資産における健全国と脆弱国が占める割合は接近します。
実際、出資金比率からの乖離はもう目立ち始めています。出資金比率からの乖離はPEPPという枠組みに限らず、定例の国債購入プログラムであるPSPP(公的部門購入プログラム)と総合して評価する必要があります。PSPPの方がPEPPよりも歴史が古く、当然、保有国債も多いため、これを抜きにしてECBの国債保有実態は議論できません。PEPPとPSPPで購入された国債を合計した上で保有比率を計算すると、既にECBのイタリア国債保有比率は資本金出資比率(17%)を2%ポイント弱上回っています。仮に今年4月以降の再投資ペースが維持された場合、年末にはイタリア国債の保有割合が20%に接近する公算であり、これは資本金出資比率で言えばフランスに並びます:
もちろん、パンデミックに対応する緊急枠組みであるPEPPは「出資金比率からの一時的乖離」を1つの特徴として生まれた経緯があるため、乖離の存在自体が想定外ということではありません。ですが、再投資の柔軟性を強調したことによって市場は「どこまでの乖離が許容できるのか」に注目することになるでしょう。この点に明確なヒントがあるわけではありませんが、やはりドイツ国債と同等の保有量に至れば相応に騒ぎになるかもしれません。言うまでもなく「ドイツを売ってイタリアを買う」を徹底し続けていけば、どこかの時点でECBが抱えるドイツ国債とイタリア国債の保有量は並びます。
例えば今年4月以降の再投資ペースを今年度(2023年3月末)まで継続すれば、そうした展開は視野に入ります。これはあり得ない話ではありません。というのも、冒頭で見たように7月以降のイタリア国債の利回りは顕著に下がっておらず、「何とか上昇を抑制している」という印象が抱かれます。6~7月に限った場合、イタリア国債はPSPPで+24億ユーロ、PEPPで+98億ユーロ、計+122億ユーロが購入されています。それくらいの購入をしてようやく利回りの抑制を図ることが出来るという状況とも読めます。現状以上のペースで「ドイツ売り、イタリア買い」が継続する可能性はあります。
「抜かずの宝刀」ではなく「抜けない宝刀」
今後、再投資ペースの鍵を握るのは9月25日のイタリア総選挙です。7月21日の会見では記者がTPIをイタリア対策ではないかと質し、「全加盟国が対象で政治リスクに対応するものではない」とラガルド総裁が反論する場面が見られました。しかし、客観的に見てもTPIを必要とするほど利回りが高止まりしているのはイタリアくらいです。その利回り高止まりの背景にイタリア政局の混乱があることは市場では周知された事実と言って良いでしょう。当面のイタリア政治情勢は金融市場の材料となるはずです
既報の通り、ドラギ政権の下での政治安定はわずか1年半で終了しており、イタリア政局は新政権への過渡期に差し掛かっています。毎度のことながら9月総選挙後の政権樹立は単独政党では困難な情勢で、現状では右派ポピュリスト政党とされる「イタリアの同胞」、同じく右派ポピュリスト政党と思われる「同盟」の支持率が高く、これに中道右派・政党であるフォルツァ・イタリアが合流することで右派三党によるポピュリスト連立政権になるとの観測が根強いようです:
仮にそうなった場合の政策主張などはまだ不透明ですが、今後のイタリア政治の方向性が反EUの色合いを帯びそうなことは否めないでしょう。欧州委員会やECBの求める緊縮・構造改革路線に反意を示すこともある程度間違いないと予想されます。
既報の通り、TPIの発動はあくまでEUの求める緊縮・構造改革路線を踏襲した場合に限り認められることになっており、右派ポピュリストによる新政権樹立に伴い、域内債券市場は「イタリアへのTPIは困難」という前提で価格形成を始める懸念があります。さしずめ「抜かずの宝刀」ではなく「抜けない宝刀」と見なされる展開です。こうした政治リスクも踏まえれば尚の事、ECBは6~7月よりも早いペースで「ドイツ売り、イタリア買い」を強いられる可能性が高いように思えます。金融市場は資本金出資比率からの乖離率が限界を迎えるとのシナリオ念頭にイタリア国債に売りを仕掛け、同国国債の利回りが上昇、それが為替市場におけるユーロ売りを誘う展開が総選挙前後の9月下旬には警戒されます。政治要因ゆえ流動的ですが、9月のECBやユーロ相場を取り巻く環境が相当に騒がしくなる可能性に構えておきたいところです。
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