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「分断」と「多様性」の言葉にモヤモヤ

 最近、私は、「分断」と「多様性」という言葉に、少しモヤモヤしています。
 例えば、「分断」の利用例としては、

政治関連の記事で目にすることが、多く、そして「マイナスのイメージ」の文章になっていることが多いようです。
 一方「多様性」はどうでしょうか?

このように、「採用」や「人権」関連の記事が多く、「取り組むべきテーマ」つまり「ポジティブなイメージ」の文章になっていることが多いようです。

企業の活動では、DEIが重要なテーマになりつつある

 この多様性の延長の言葉では、DEI(Diversity, Equity & Inclusion)、日本語では、多様性・公平性・包括性という言葉は、企業文化の醸成に重要な言葉になりつつあり、経済同友会でも

取り上げています。

「分断」は、意識的に起こしているのか、多様性の結果なのか?

 私が、「分断」と「多様性」の言葉に、モヤモヤしている理由があります。それは、

  • 私たちは、意識的に「分断」を起こしているのか?

  • 「多様性の先に、「多様な価値」があり、それを、短絡的に分断と捉えていないか

 分断について、「政治」的な文章例を先に提示しましたが、他の事例も見てみましょう。

この記事の中で、以下のような文章があります。

親同居の背景に所得格差の拡大や社会の分断があるとすれば、まずはその問題をどう解決するかが重要だ。日本もバブル崩壊後の就職氷河期が若年層の雇用・所得環境を悪化させ、結果的に婚姻活動の低迷をもたらし、少子化を深刻化させた。この重い教訓は、同じく親同居率が高いアジア各国にも通用するといえる。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA12AD80S3A510C2000000/

ここでは、「社会の分断」という言葉が出てきます。この社会の分断とは何でしょうか?社会とは、「人の暮らしの集合体」だとすると、そもそもその社会の定義は一意に定められないと思います。しかし、「多様性」が浸透している最中には、まだ全員の合意の取れる「理想の社会」があると考え、その社会から、少しズレると、そこに「社会の分断」があると感じてしまっているのでは、ないでしょうか?

多様性に終わりはない、つまり「価値の多様化」も進化し続ける

 私たちは、多様性を享受しました。それは、「個人の人権」を認めることであり、基本的な人権で、誰にも止められるものではありません。
 多様な人には、多様な思考があり、この思考も基本的な人権で認められています。
 このように考えると、「分断」という、「何か」が一つにまとまることが、「良い」という考えの方が破綻しているのではないでしょうか?
 例えば、家族の形は、今までは「男女の婚姻」を統一的な考えとしていましたが、この考えにも多様性が芽生えています。働き方も、一つの会社での「終身雇用」が統一的な考えでしたが、これも多様です。このようなことは、さまざまな場面で発生していうのでしょう。


問題は、価値が多様な社会への向き合い方に悩んでいること

 「多様性」は認めつつ、「分断」という言葉を、私たちが使う理由は、「多様な価値」をお互いに認めつつ、一つの組織を運営する方法を、私たちが知らない、悩んでいることにあるかもしれません。
  例えば、私が仕事を行なっているマーケティングでも、お客様が一様であれば、ヒット商品を考えやすくなります。政治の世界でも、2大政党政治が望まれる背景には、意見が2つ程度の選択肢おさまることを、想定しているのでしょう。
 しかし、これからは、多様化の時代です。この多様化の時代の、社会、組織の運営方法を考えないといけないのでしょう。そして、「分断」という恣意的な言葉の利用をさけ、「多様な価値」や「個人の価値観」という言葉を使う時代になったのでしょう。
 

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本間 充 マーケティングサイエンスラボ所長/アビームコンサルティング顧問
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