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なぜ組織や社会のダイバーシティは難しいのか? 〜「多様性」と「強さ」「大きさ」のジレンマ

お疲れさまです。uni'que若宮です。

このところ、「多様性」と「強さ」「大きさ」のジレンマについて考えていて、今日はちょっと現時点でのモヤモヤを書きたいと思います。


ジェンダー含め、ダイバーシティについては企業やイベントなどにお招きいただいて色々話したりすることも多いのですが、ダイバーシティが進まないのは単に個社や個人のやる気の問題だけでなく、社会や世界の構造的なジレンマがある気がして、最近もぐるぐる考えています。

このあたり先日、ソニックガーデン倉貫さんと楽天大学の仲山がくちょのザッソウラジオでも少しお話したのですが、

多様性を内包しながら組織や集団をつくっていくって難しくて、自分でベンチャー企業を経営していても、理想論や二元論ですまないジレンマを感じて悩むことがあります。


「多様性」と「強さ」のジレンマ

かつてホッブズは

市民社会無き人間の状態(それは自然状態と呼ばれるべきかもしれないが)は「万人の万人に対する闘争」である

と言いましたが、たしかに「闘い」や「争い」の論理はこれまで長い間人間を支配し、相互に傷つけ合わせ苦しみを生んできました。

これが人間の「自然状態」なのかどうかはちょっと置いておくとして、「闘い」が支配する社会では、「強さ」が美徳として自然に求められます

強い国家、強い企業、強いチーム、強い気持ち、強い愛etc…。(後半はちがう

しかし、SDGsやDEIなど多様性をこれまで以上に大事にしようとすると、実は「多様性」が組織の「強さ」の邪魔になる、というジレンマが起こります。

今もジェンダーやダイバーシティについて企業にお招きいただいてお話をすることがありますが、それを実行する難しさの半分くらいはここにある気がします。今の時代「多様性」に正面切って反対する人はほとんどいないので、総論としてはみんなが「多様性は大事だよね」と言います。なのにジェンダーギャップの解消などはなぜもっとスピーディーに進まないのか?

総論賛成でも各論反対、もしくはとりあえずちょっと見送りで…と後回しになる理由は「多様性が大事なのはわかるけど、業績達成できなくなるやん…」という経営陣やマネージャーの躊躇です。

本来、多様性は利益に背反することではなく、組織の創造性やレジリエンスを高め、長期的な目線でみれば企業にとって経済的にもプラスだと僕は信じています。しかし短期的には、多様性を考えることでスピードや効率がダウンし業績が落ちるようにも思えます。(色んな意見が出ると意見がまとまりにくい、多様な社員を受け入れるために設備などの固定費コストが上がる、営業で成果を出すなら体力があり出産もない男性を揃えたい…などなど)

いまでも「必勝」「常勝」などを掲げチームをチアアップすることがありますが、企業活動を他企業との闘争として捉えると「強さ」が必要とされ、そのために多様性や異質性が排除されたりします。

同質性が高いほうが「一致団結」しやすく「強さ」を持ちやすいですし、また、「強さ」という一軸で測っている場合には、多様性の価値は評価されづらいからです。本来異質性や多様性によって「強さ」以外の軸にパフォーマンスが発揮されていても、それに気づけなくなります。「強さ」軸で組織を「精鋭」化するほどに、多様性が排除され、同質性が高まるのです。(「女子供は現場に来るな」もこうした精鋭化の結果といえます)


「多様性」のために「強さ」も必要

一方で、では組織や集団に「強さ」が要らないかというと、多様性を内包するためにこそ「強さ」が必要だったりします。これが難しいところなんですよね。

もし本当にこの世から闘いが消え、完全な平和が訪れたなら「弱いもの」も心配なく生きていけます。しかし、そこに誰かが攻め入ってきたり暴力が起これば弱いものほど命を脅かされますし、日常生活の生存競争としての「闘争」においても、弱いものは生き残りづらいでしょう。

弱い個体が安心して生きていけるためには、それを守れるだけの集団の「強さ」が必要になる。実際、剣術や格闘技をみにつけていない僕らが犯罪の危険性に毎日おびえず暮らしていられるのは「国家による警察というパワー」があるからです。そして、そもそも「多様性」という観点を社会に入れることができるのは母体である日本が「強い国家」になったからです。かつての日本や発展途上国、未発展の村ではもっと生きることは苛烈であり、赤ちゃんや障害がある人など相対的に弱い存在は遥かに生存が難しいでしょう。

つまり、「強さ」を求めると多様性は失われがちになるが、多様性を内包するためには「強さ」が必要という逆説があるのです。


「多様性」と「大きさ」のジレンマ

そして「強さ」を求める組織は「大きさ」も求めます。身体が大きいほうが喧嘩に有利なように、「強さ」は「大きさ」にも一定比例するからです。

資本主義市場における企業もそうですし、国家もそうです。企業は競合に勝つために常に大きくなろうとし、国家も物理的な領土だけでなく経済圏や影響力を維持・拡大しようとせめぎ合っています。

しかし、こうした拡大志向は次の闘いを生みます。資産や資源は有限なのでそれぞれが大きくなろうとするといずれカニバリが起こり、ぶつかったところに争いが生まれれるからです。

闘ってまで大きくなろうとしなくてもいいじゃん…と思うところですが、皮肉にも「大きさ」がそれを許しません。すでに大きくなった図体はそれだけ維持コストもかかるので、くいぶちを確保し続ける必要があるからです。

闘いに勝つために大きくなった結果、その図体をまかなうために闘わなければいけなくなる、こう聞くとなんだか本末転倒のような気がしますよね。

でも実際これが世界中で起こっている気がします。いまだ続くロシアによるウクライナへの侵攻もそうですし、企業は資本主義での中で生き残りをかけ、やっきになって組織を大きくしよう、売上・利益を伸ばそうとし、それを賄うために競合と顧客の取り合いをしている。

そしてどちらかが敗れ消滅するか同質化され吸収されてしまい、小さな多様性は減っていく。少数民族のカルチャーがグローバル化によって消滅してしまったり、あるいは小さくユニークな店舗が撤退し画一的なチェーン店ばかりになったり、わかりやすい本が棚を占有し、難解だが深い古典になるような本が絶版になってしまう。大きさを求めるものは大きくなるほどにより大きくなろうとし、そこからまた闘いが生まれ、それに巻き込まれて多様性が減っていく。


「多様性」のために「大きさ」も必要

しかし「大きさ」は悪いことだけではありません。

戦国時代が天下統一によって終わったように、「闘争」について考えるなら多様性がまとめられた一様性すなわち「一つになる」ことはある種の平和的状態でもあるからです。多様性を苦しめていた「闘争」は「大きさ」によって終わらせることができるが、その頃には「大きさ」のせいで多様性が失われている、というまたも逆説があります。

よく言うのですが、天下統一やグローバリズムなどのようにひとつの世界、すなわちある種の普遍的一様を目指すことは「uni-verse(一つに向かう)」的考え方であり、実はダイバーシティ(=di-verse(別々に向かう))とは真逆の方向性なのです。

また、一様性ではなく多様性を認めようとした結果、ある種の分断が起こることもあります。たとえば同じ国の中でも、あまりに考えがちがいすぎる人たちとは別々に分かれ、気が合う人だけで生活するほうが良い気もします。一見そのほうが無益な争いもなさそうです。では、それぞれがそれぞれの小さな国に分かれたほうがよいでしょうか。

思想が同じ人が集まって、コミューンのような共同体を作り自分たちなりのルールをつくって暮らす、というのは割と試みられてきたことだと思います。宗教もそういうものかもしれませんが、こうした分化がやがてかえって争いを引き起こすこともあります。

せっかく多様性をみとめ、それぞれのあり方に向かっていけるのになぜ問題が起こるのでしょうか?一つにはこのように分かれた結果、小さい単位になった組織の中では今度は逆に同質性が高まるという逆説が原因な気がします。国家など大きな共同体の一様性を嫌って分化したはずが、分化した結果内側が同質化し、多様性を欠くものになってしまう。

こうして同質性が高まると、今度は「内集団」的な異質性の排除が起こっていきます。いわばムラ化して閉塞的になり、ちがう考えをすることは許されない、というある種の全体主義的志向を帯びるのです。


「複層性」と「動的変化」

こうした「多様性」と「強さ」「大きさ」のジレンマは、ウクライナ問題にも見て取ることができます。

ロシアは一国というよりもともと多様性のある連合体です。過去西側諸国やタタールからの侵略を受けてきたロシアはその多様性を守るためにも、「強さ」が必要であり、そのために中央集権による同質化が推し進め、「大きさ」も維持しなければなりません。しかし強くなった結果国が豊かになってくると、そこから独立したいという国がでてきます。ウクライナからすればロシアからの同質化から独立することが多様性ですが、一方のロシアからすると自国の多様性を守るためも、ウクライナを失って国が小さくなることに簡単にいいよとは言えない。(しかも西側のグローバリズムに加入するとなればなおのこと多様性の逆に見えるでしょう)

自社の経営で置き換えてみても、これはなかなか難しい問題です。資本主義の中で「闘いに勝ち」生き残っていくためには「強さ」や「大きさ」も必要です。その時、多様性や異質性を犠牲にせずどれだけ内包しておけるでしょうか?

すでに述べたように多様性は「強さ」や「大きさ」と背反するところもありつつ、一方で強さや大きさがなければ多様性を包含していることもできません。

たとえばメンバーの自主性や意思を尊重しようと思えば、その自由を確保するだけの売上や利益を上げる必要もありますし、チームを強くするために同質性を高めることも必要です。しかし強く大きくなったとして、それが多様性の排除や同質化につながり自家中毒をおこしては本末転倒です。

もちろん「大事なのはバランス」「中庸」なのですが言うは易し…。走りながらギアを落とすことはとても難しいですし、外部環境も変化する中で常に自覚的になっているのはかなり難しいというのが実感です。多様性を内包して組織を育てていくというのは一度やればいいということでなく、常にそうした運動や内省を続けていくことであり、これはなかなかしんどいのです。


ちなみに、いま自社でやっている組織の実験はこれを「複層性」と「伸縮性」によって解決できないかというものです。

「複層性」とは、たとえば複業によりメンバーが常に色々な組織や集団とのつながりを同時にもつことで多様性を担保する、ということです。こうすればメンバーがそれぞれ他に所属する空気が入ってくるので同質性が閉鎖的に高まることが避けられますし、メンバーの組織に対する依存も分散されるので、組織と個人が支配的関係ではなくフェアな関係が保て、多様性が保存できるのではと思っています。

(↓大企業でも複業企業の流れが広がっています)


また、自社では一定自走が可能になった事業は分社化し独立することにしています。なのでメンバー数も右肩あがりに伸びていくということはなく、増えては減りまた増え、と「伸縮性」をもっています。結果「大きさ」至上主義にはなりませんし、独立しても敵になったり無関係になるわけでもないので、分断にもならずゆるく多様性が維持されるのではと考えています。

これまで、組織や団体では「強さ」と「大きさ」が求められてきましたし、それは闘いがベースにある社会ではたしかに有効なことでした。

しかしダイバーシティを考える時、従来のやり方だけではどうしても排他的exclusiveになってしまい「多様性」を包含するinclusiveことは難しいのでは、という気がしてしまうのです。組織における多様性をかんがえることは「組織そのもの」を考え直すことな気がしています。


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