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「グローバル」、「インターナショナル」、「ユニバーサル」はどう違う?ー「グローバル」は極端な発想を生みやすい。

のっけから挑発的かもしれませんが 笑、「グローバル」と「ローカル」という言葉があまりに対立的に捉えられることが多く、それに違和感を抱くことが頻繁にあります。以下の記事の視点もどうかな?と思いました。これは一体、グローバルと反グローバルをキーワードに両者を対比するのが適当な現象なのか?と。ローカル文化やローカル経済が再評価されつつある今、それらが反グローバルと括られかねません。

さて、グローバルと近似と思われそうな言葉があります。「インターナショナル」です。そして、ややこれらの2つとは距離のあるところに「ユニバーサル」という言葉がくるのではないか、ということを考えています。

下記はGoogle Trends でglobal (赤)、international(黄)、universal(青)、local(緑)を入れてみたものです。2004年以降で、すべてのカテゴリーですべての国を対象にしています。インターナショナルの低下が著しく、この数年、ローカルがやや上昇気味です

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もう一つ、別の言葉を入れたのが下図です。これも同様の条件ですが、globalization(青)、localization(緑)、universalization(黄)、internationalization(赤)です。これらは「・・・化」なので方向性を伴っていますが、グローバリゼーションが徐々に検索されなくつつあったのが、ここのところやや上昇に転じています。他の3つは長期に渡り変化がないなか、ローカリゼーションがじょじょに低下しています。ローカリゼーションがグローバリゼーションを補完する手法としてとられるケースが多いとすると、この2つが並行して検索されなくなっている傾向は不思議ではありません。

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ここでぼくが考えるのは、どうにも低調気味なインターナショナルやユニバーサルが、グローバルと反グローバル(あるいはローカル)という2つを対立構造にしがちなーやや思考停止的で閉鎖的な頭をーところを救えるのではないかとの仮説です。インターナショナルやユニバーサル、特に後者には西洋中心の考え方を外に拡大するとの意図をもつことが多かったため、選択肢から削除されてきた経緯もあるでしょう。だが、グローバル一本ですべてを表現するよりもマシな思考を導いてくれると考えています。

このように、それぞれの言葉にはいろいろな定義がありますが、ここではぼくなりの色分けと解釈をしてみたいと思います。

グローバルには強圧的な力の存在を感じる

グローバルは地球レベルのサイズを指し示しますが、往々にして経済的に大きなインパクトを与える存在を示唆します。多国籍巨大企業が主役を演じる公的規制のない新自由主義とダブり、政治権力の存在がこの世にないが如きの振る舞いが許されるかのような言葉です。

象徴的なのは企業レベルであれば(例えば、安い加工費の地域を活用する)長いサプライチェーンやIT企業のサービスという例が挙がるでしょう。グローバル人財とは、こういうレイヤーで自在に働ける人を指します。また大きなシステムであればグローバル規格とも称します。

これを「グローバル化」にした場合、ある製品ならば世界でそのまま通用する(スマホのハードウェア)仕様にするのがグローバル化であるとも言えますが、インターナショナル化と表現した方がフィットすると個人的には思います(その理由は後述)。

ただし、経済問題とはやや一線を引いた地球環境の問題が注視される現在、これはグローバルそのものの問題として論じられるので、グローバルがいつも経済によって関連付けられるとは限りません。

一方で環境問題を各国が共同して立ち向かうには、「インターナショナルに協力をする」とのフレーズの方が実質的にしっくりきます。各国政府の政治的な動きや中堅以下の企業活動も反映されるからです。グローバルはゼロか10かとの思考を招きやすく、「グローバルに協力する」は掛け声だけのレベルに留まるように思えます。リアリティに欠けるわけです。 

インターナショナルが下降線を辿るのはなぜか?

インターナショナルは前述したように流行らない言葉になっています。

近代国家のはじまりは、宗教改革に続き欧州を混乱に陥れた30年戦争が終結したウェストファリア条約(1648年)とすることが多いですが、その後、民族的あるいは文化的アイデンティと国家が結びつくことで良いことも悪いこともありました。つまり結束の良さを生み、そこに新たな文化が生まれ、しかし、それがひいては少数民族の疎外や排斥を生んだとも言えるでしょう。

ただし、かといって地球上、まったく何の区切りもおかずに集団生活をおくるのは非現実的な単なる空想です。キリスト教という共通の土壌があるEUであってさえ(そしてEUの源流には16世紀のトーマス・モアの「ユートピア」の希求があったとしても)、ご存知のように脱EUを望む人たちが少なくないわけです。EUは加盟国の主権の一部が譲渡されて成立した仕組みですが、国家がすべて主導権を握れないことに不満を覚えた英国民はEUからの離脱を望んだのでした。

他方、インターネットで繋がる国境を超えた個人レベルのコミュニティや企業活動が国境を窮屈に感じるのも事実でしょう。こうした人々は発想のもとに国家があるインターナショナルを好まず、一見、ダイレクトにグローバルというサイズを希求する(ように見えます)。なかには超巨大企業がグローバルというサイズに合った活動をすることもありますが、リアルにみれば多数派は「国境を超えた関係性の実現」に照準がおかれ、インターナショナルと表現するのが相応しいです。

前述した製品仕様であれば、ローカル文化との駆け引きで判断せざるをえず、アプリになると、さらに地域ごとのローカライズが加わることが多いのでグローバル化のレベルは下がります。それならば複数文化の関係を示唆するインターナショナルが無理ないです。グローバル化なら英語表記で統一することを暗示することが多いですが、インターナショナル化であれば各国言語表記を選択肢として提示することになります。

即ち、このインターナショナルという表現の復権により、自分たちのリアルなサイズでの開放が追求できるのではないかと考えます。ここではゼロか10ではない、2や5というレベルの交流をポジティブに肯定できます。

ユニバーサルを見直してみよう

先に述べたように、ユニバーサルは西洋の考え方をその他の地域に敷衍する際のバックボーンになったこともあり、「普遍と言いながら、結局は自分たちの考えの押しつけではないか」と言われやすいです。というわけで、インターナショナル以上に検索頻度の少ない言葉になっています。

ユニバーサルはさまざまなことやものにある共通性を重視する、いわば平和的なアプローチと捉えられやすいと考えられますが、ぼくは、この点が提供する意味は大きいと思います。グローバルにあるサイズ、インターナショナルにある関係とも違い、ユニバーサルでは価値にウエイトがおかれます。

例えば、冒頭の記事に以下のような一文があります。

「グローバル化か反グローバル化かの二者択一ではない」。自国の雇用を重視する米最大労組、労働総同盟産別会議のリチャード・トラムカ議長でさえこう話す。感染急拡大がグローバル化の副作用なら、それを克服する動きもグローバル化のたまものだ。

記者は、何がなんでもグローバル化を正当化したいのか?と皮肉りたくなりました。ぼくが考えるに、グローバルに対してあるのは「反グローバル」ではなく、ローカルの再評価であり、そのローカルの価値が各国の各地にあることを積極的に評価するユニバーサルな見方が相応しいです。そして、それぞれのローカルが可能な範囲でお互いに交流することに対してインターナショナルとの表現をするのが適当ではないか、ということです。

以上、一度「手垢のついた」表現でも、このように使い分けることで状況をより丁寧に記述できるのではないかとの提案です。いわば世界の見方のデザインです。ぼくが勝手な思い込みや勘違いしている部分もあるかもしれないので、そこは遠慮くなくご指摘ください。

写真©Ken Anzai




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