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明日、自分がどういう判断を下すか分からない。

「理性」と「感情」のせめぎ合いのなかで人は生きている。こんなこと、誰でも知っている。しかしながら、とんでもない勘違いがあるように思えるシーンに遭遇する、時に。

あたかも、人は「理性グループ」と「感情グループ」という2つのグループのどちらか一方に属していて、これらの2つのグループの釣り合いでコミュニティが、あるいは社会が成立するかのような錯覚が生じている。

「理性グループ」の人が「感情グループ」を制御し、「感情グループ」が「理性グループ」を解放する、と期待しているかのようだ。どちらかに重心がかかりやすい性格というのは確かにある。

「俺は感情のおもむくままに生きるから、お前は俺をうまくコントロールしてくれ」とチームのなかでの役割分担を語る人もいる。人の性格のこうした機能的な役割が発揮する場面もままあるのは事実だ。

ただ、誰もが自分で何かの判断をして自らの道を決めて生きていかなくてはならない、という摂理のようなものがある。義務というより、人が生きるのはそういうこと、という次元の話だ。

理性と感情の次元は、1人の人間のなかで折り合いをつけるべき問題である、という動かしがたい現実に向き合わないとどうしようもない(二項対立的な考えが批判の的になるのは、それらを包み込む統合的な世界が1人の内にあるとの現実を踏まえていないと見えるからだろう)。

そういう認識で新聞の記事を読む。すると、大きな社会の全体をみて物事を判断しなければいけない、言ってみれば「上に立っている人」の凄さ、しかし、その凄さはいつも分かりやすいわけではない、との冷徹なリアリティがむき出しになっていることに気づく。

英国のスナク首相が11月28日に予定していたギリシャのミツォタキス首相との首脳会談を直前になってキャンセルした。この時のスナク首相の判断とギリシャ側の反応の背後を想像するのは、一つの思考トレーニングになると思う。

キャンセルの理由は、ミツォタキス氏が大英博物館が所蔵する「エルギン・マーブルズ」はギリシャに返還されるべき、と26日のBBCの番組で発言したからだ。「エルギン・マーブルズ」とは紀元前5世紀に建てられたアテネのパンテオン神殿に飾られていた彫刻群のことである。

事情をよく知らないと、「こんなことで首脳会談がキャンセルに?」と驚く。

この彫刻群は、1800年代はじめにオスマン帝国への英国外交官であったエルギン卿がオスマン帝国の一部だったギリシャから英国に私的に運び込んだ。その後、大英博物館に寄贈されたのである。

ギリシャは1832年の独立以降、英国に繰り返し返還を求めてきている。だが、英国サイドは正当な手続きを踏んで英国に輸入されたもので、(何度かギリシャ側にとっての光明が見えたが)貸与はあっても返還はないと回答してきている。

一方、英国を含む欧州各国で帝国主義時代にアフリカなどの旧植民地から収奪した文化財を返還する動きがある。

政治パフォーマンスで先行した形の返還機運だが、著名美術館への包囲網は着実に狭まりつつある。

例えばウィーンの美術史美術館。今年5月、オーストリア政府は同美術館に収蔵されているギリシャ・パルテノン神殿の彫刻群を返したいとギリシャに伝えた。英国の大英博物館も収蔵品を世界各地に返すべきだとの批判にさられている。

負の歴史を直視することに対する戸惑いはある。

マクロン大統領は略奪文化財の返還を円滑にするための指針を作るようルーヴル美術館前館長のジャンリュック・マルティネズ氏に命じた。

旧植民地の美術品、欧州で返還論 歴史清算に外交も絡む

そうした状況のなかでのスナク氏の首脳会談のキャンセルである。

ミツォタキス氏は番組で、神殿と彫刻群が離れ離れになっている状態は「名画モナリザが真っ二つになっているようなものだ」と例えた。

ギリシャ首相府の担当者は、首脳会談を中止したスナク氏の「決断に驚いている」と話した。

英ギリシャ関係にすきま風 首脳会談中止、彫刻群巡り

上記の文章を読めばわかるように、首脳会談のキャンセルは、そこまで過去の経緯を深く知らないぼくだけでなく、ギリシャの政府担当者さえ驚いたらしい。

多分、ギリシャ側の人間は「スナク首相は感情が先走ったのでは?」と想像したのではないだろうか。だが、英国側の人間は「ミツォタキス氏の番組の発言は感情的で、このような振る舞いの直後に首脳同士が会うのは適切ではない」と思ったかもしれない。

もちろん感情だけで全て決めない。ただ、どこかのタイミングで感情がフックになるのだろう。理性は全体像が掌握できないと発動しにくい(または、全体像を把握しようとする)。感情は物事の一部が覗けるだけで十分に作動する(感情に全体像は不要だ。一部だからこそ、感情が刺激される、とも言える)。

(全体像を掴みようがない)歴史的経緯は人を往々にして感情的にさせるが、いずれにせよこのようなシーンでは、理性が制御不能になったものとして感情が悪玉になりやすい。その反面、理性ですべてを決めることが制御可能を意味するのか?との問いもでてくるだろう。そもそも、人間の判断や行動に「制御可能」という事態があり得るのか?との疑問もある。

冒頭に述べたように、理性と感情は個々の人間のなかで、極端な表現をとれば、時と場合により「わけもなく」折り合いがつけられるものだ。本人でさえ、明日、どういう判断と決定を下すか分からないところで日々は過ぎていくのである。それは一国の首相でさえ、そうなのだ(と思う)。

「世の中はいろいろあって分からない」をさらに正確に言うならば、「誰もが自分の判断さえ分からないなかで生きているから分からないのだ」になる。

これをさまざまなことを考える際の起点にしてみたい。
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最後に。以下のようなオンライントークを12月13日に行います。この日経新聞COMEMOにぼくが書いているいくつかの記事について、新・ラグジュアリーの講座を一緒に運営してくれている石井美加さんと前澤知美さんのお2人から質問をうけ、ぼくが答える、というかたちで進めます。ご関心があれば、以下からお申込みください。今回、上記で書いたことも、話題にのぼるかもしれません。

冒頭の写真©Ken Anzai






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