女性活躍が進まない?それは、腹落ちがないから
安倍政権で威勢よく打ちあがった「女性活躍」が、菅、岸田政権と続くにつれ、失速している。実際、模範企業とされるえるぼし企業でさえ、計画通りに女性登用できている割合は4割強にとどまるという。
進みが遅い企業では、計画はあっても進捗の「見える化」がないため、危機感が募らないのだという指摘は正しい。しかし、それだけだろうか?
日経2021年版「女性が活躍する会社BEST100」の上位には、アクセンチュアや日本IBMが並ぶ。このように、比較的女性活躍が進む外資系企業と典型的な日本企業の違いを考えてみると、そもそもなぜ女性活躍が大切か、という問いに対する「腹落ち」の有無が根本にあるように思う。
外資系企業、多くの場合、「とにかく優秀なひとに活躍してほしい(そして、業績を上げてほしい)」というドライな目論見が明白だ。特に、知名度やブランドにおいて日本企業に劣る場合、採用に不利のため、「優秀なひと」に対する執着はひと際と言える。
そこで、優秀な女性にも大きな期待がかかるものの、思い切り働いてもらうには、女性側に障害があることが多い―家庭との両立の難しさや、管理職に憧れがないなどが典型だ。では、障害を取り除こうという動機が働く。フレックスを取り入れて家庭との両立をしやすくしたり、ゴルフに飲み会といった「おじさん文化」をなくしたりして、なるべく女性に気持ちよく働いてもらおうとする。地道に積み上げた結果が、実のある女性活躍だ。
一方、日本企業はどうか?もちろん、日本企業も「優秀なひとに活躍してほしい」という建前はあるものの、本音は、村社会の調和を重んじた「みんなで仲良くやろう」・・・建前より優先するのではないか?このとき「みんな」が曲者―結局、既存の勢力を持つ年かさの男性を中心とした「みんな」を意味するからだ。自然と「優秀なひと」は自分に似たひとに限られる。
このとき、政府や株主やコーポレートガバナンスコードから圧力を受ける女性活躍では、「言われたから」やっているという受け身な姿勢になってしまう。「みんなで仲良く」が重視される結果、障害があるとすぐに腰砕けになりがちだ。
例えば、管理職に登用したい女性が「家庭を大事にしたい」と否定的な態度を取れば、「やっぱり、そうだよね・・・」と折れてしまい、では家庭を大切にしながら仕事も両立できる環境を整えようという方向に向かない。または、特に優秀でもないひとを「女性だから」とむやみに重用すれば、周囲は白けてしまう。これでは、女性活躍が進まないのも自然だろう。
一歩下がると、女性活躍を成功させる社会には共通項があると考える。一つは、環境がそうさせる場合―例えば、戦争で壮年男性が激減したうえ共産主義になった場合、子育ては社会インフラに任せて男性も女性も平等に働くケースが多い。東欧諸国がこの例に当てはまる。
または、移民が多く人口構成がそもそも多様なため、ジェンダーを含め背景にかかわらない人材登用に敏感なケース。現代アメリカは、黒人人口も加わり、より複雑な人口構成になっている典型例だ。
どちらの類型でも、「なぜ女性活躍が大切か」に、社会全体として、基本的な腹落ち感がある。ところが、日本はどちらの類型にも当てはまらない。一方で、労働人口の減少には拍車がかかり、社会課題は山積している。新しい活力が必要なことは目に見えている。であれば、日本も外資系企業のように「優秀なひとに活躍してほしい」という根本を、堂々と押し出すべきではないか?
このとき、「優秀な」を判断する組織のレンズから、既存の「おじさんバイアス」を除くことが肝だ。そのためには、経営トップが音頭を取って、スタッフから幹部レベルまで、冷静に能力を見極め、働き甲斐を阻害する障害を取り除かなくてはならない。女性も男性も、優秀な人材がパイプラインを上がっていく仕組みと文化を作ることがゴールとなる。
実は、多様な人材プールさえ出来てしまえば、そこにはいい意味での慣性力が働く。すなわち、性差や人種に頼らない評価はおのずとドライになり、優秀なひとをより正確に評価しやすくなるだろう。
女性活躍を含めた人材多様性は、その方が「イノベーションを促進するから」という文脈で語られることが多い。しかし、成り立ちから多様でない日本にとって、見たこともない「多様性によるイノベーション促進」は遠い話に聞こえがちだ。
そのうえ、日本が革新的と言われた70-80年代は人材多様性とは程遠かったためなおのこと、この文脈に心から賛同することが難しいのではないかと察する。では、この説明は応用編として、基本の「とにかく、優秀な人に活躍してほしい」という始点から、女性活躍の意義を腹落ちさせてはどうだろうか?
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