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WONDERLESS JAPAN 〜「責任」と「やりがい」と「問い」のプチ社会学

お疲れさまです。uni'que若宮です。

渋谷スクランブルスクエアのQWSというところでコモンズメンバーというのをしているのもあり、最近よく「問い」について考えています。

今日は、「問い」ということについて書きたいと思います。


最近、こんな記事がありました。

「自分を大人」、「責任ある社会の一員」と考える日本の若者は約30~40%と他国の3分の1から半数近くにとどまり、「将来の夢を持っている」、「国に解決したい社会課題がある」との回答も他国に比べ30%近く低い数字となっています。さらに「自分で国や社会を変えられると思う」人は5人に1人、残る8カ国で最も低い韓国の半数以下にとどまり、国の将来像に関しても「良くなる」という答えはトップの中国(96.2%)の10分の1。全体に途上国、欧米先進国のいずれと比べても数字の低さが際立つ調査結果となっています。

黄色いマーカー箇所が日本なのですが、まあ全てにおいて群を抜いて低い。数字だけ見てもかなりショッキングなものではあり色んな読み方ができると思いますが、僕が感じたのは「問い」の力が減っているのでは、ということでした。


「大人」になりたくない?

18歳の意識調査ですし、一番最初に「自分を大人だと思う」という質問が来ているので、短絡的にこれを見てしまうと

「他の国じゃ18歳は立派な大人なのに、日本の若いもんはまったく子供だ!こんな甘えたモラトリアムじゃ先が思いやられるわ」

と批判する人もいるかもしれません。いつの世も繰り返される、「近頃のわかいもんは!」理論です。

しかし、ここで一度立ち止まって考えてみるべきなのは「大人」という言葉の意味です。というのも、自己申告のアンケート調査なので、そもそも「大人」という言葉の捉え方が違えば結果は大きくちがってしまうからです。

かつて僕がティーンネイジャーだった頃。その頃を思い返すと自分はどうだったかな、と思うと、「大人ぶりたい気持ち」と「大人になりたくない」という気持ちがないまぜになっていました。そしてこの時の「大人になりたくない」には「(つまらない)」とか「(型にはまった)」とか、そういう形容詞が隠れていました。

「大人」というもの自体がネガティブなものであれば、18歳の彼らとて自分を「大人」だと認めたくはないでしょう。


「責任」と「やりがい」

アンケートの2問目には、「自分は責任ある社会の一員だとおもう」という質問が続きます。この連続から、「大人」と「責任」には概念的な相関があり、「責任」は「大人」の要件の一つであると考えられます。

仕事でもなんでもそうですが、「責任」はたしかに面倒なものだけれど、その分「やりがい」も感じられるものです。しかし、もしこの「やりがい」が感じられなければ「責任」は息苦しいだけのものになってしまいます。

4番目の質問に「自分で国や社会を変えられると思う」というのがあります。見ると、これも日本が群を抜いて低いのです。自分が社会を変えていける、つくっていける、そういう可能性が感じられなければ「やりがい」はありません。設問の1,2,4を見れば、「やりがい」の少なさと「責任」の低さ、そして「大人」度に相関があることがわかります。(韓国でも同様の傾向が見られます)

「やりがい」がなければ「大人」や「責任」には重さや煩わしさしかなく、わくわく感がありません。日本の社会は今どうも「やりがい」がないものになってしまっているようです。


ではなぜ若者は、「社会を変えられない」と感じるのでしょうか?

いや「なぜ若者は、」とするのはフェアではないかもしれません。30代、40代に聞いた時、「自分で国や社会を変えられると思う」と答えられる大人はどれくらいいるでしょうか。

日本の18歳も、課題を感じていないわけではありません。他国に比べると低いですが、それでも半数近くが課題を感じています。課題があると感じているのに「変えられない」。Q5とQ4とのギャップは、徒労感や諦めを生みます

野党が機能せず低い投票率で選挙が決まり、その選挙に関して明らかにおかしなことがあっても「黒塗り」や「シュレッダー」によって無かったことにされてしまう社会では、そもそも「大人」も変革の可能性を信じられなくなってきています。大人が「変えられない」と諦めていたら「近頃の若いもんは…」などというのは無理筋でしょう。


「課題」と「問題」の息苦しさ

最近、「問い」の力、ということがよく言われます。しかし、日本の「問い」はどうも息苦しいものになっている気がします。

たとえばSNSなどで、ある事柄に対して「それってほんとにそう?」というような素朴な疑問や疑念を投げかけただけで、二種類の「責任爆弾」が飛んできます。

①ggrks爆弾・・・ちゃんと調べてから言え!ネットで調べれば分かることを聞くな!そんな浅い知識のやつが無責任に意見するな!
②代替案爆弾・・・じゃあどうしろって言うんだよ!他にいい案あるのか?代替案もないのに無責任なこというな!

ですが、そもそも分からないことを分からない、ということがそんなに罪なのでしょうか?代替案がなければ発言してはいけないのでしょうか?


いま日本でいう「問い」は、どうも「課題issue」や「問題problem」のような、シリアスかつ「解決策solution」を前提としたものになっている気がします。(アートに関しても「課題提起」とか「問題提起」と言われますが、僕はあまりこの言い方が好きではありません。アートは「ソリューション」のための前座ではないとおもうからです)

しかし本来、「問い」はもっと原初的でシンプルなものではないでしょうか?


wonderless → wonderful

僕のイメージする「問い」のあり方は、もっとシンプルな、英語の「wonder」のようなものです。

I wonder…

というのは、「…かしら?」というようなくらいのものですよね。それは「解決すべき課題」はあるか?とかなにか「問題」はあるか?という「ソリィーション」のための導線ではなく、ちょっとした疑問や「不思議に思うこと」くらいのものです。

そしてまた、wonderにも語源的に「驚き」という意味がありますが、「不思議」というのは未知のものへの驚きでもあります。

それってなんで?
それって不思議!

もしかすると、日本では、こんな言葉が徐々に失われてきている(wonderless)のではないでしょうか。

一つ一つの小さな問いは、「解決すべき課題」も「解決策」も提示しないかもしれません。しかしそういう小さな疑問を始めとして、そこから生まれる問いと触発のネットワークから、集団知によって社会が変化していくことはありえます。

だから、個人が解決策や代替案をもっていなくても、問いを口にしてよいのです。


一つの希望は、(これも最下位ながらも)日本の18歳の6割がまだ「将来の夢を持っている」ということです。「夢」とはまだ見ぬ将来や未来にわくわくすることです。

その夢が窒息しないためには、「I wonder」というような小さな問いや驚きを否定しないことが重要ではないかと思うのです。wonderに満ちたわくわくする(wonderful)な日本に少しずつ変えていきたいですね。

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