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未来の体験を提供する際のエンタメ性について(虫を食べながら)

虫を食べました

先日、虫を食べました。久々に、食べました。とても素敵な環境で、とても美味しい料理として。お酒との相性も抜群で、とても、なんというか、興味深い体験でした。

サステイナブルという文脈で、タンパク質源としての昆虫が見直されています。

ゲテモノ的な扱いだった食材

20年以上前の僕は、食べ物に対して禁忌を抱くこと自体を良しとせず、いわゆる「ゲテモノ」と呼ばれるものであっても臆することなく食べることが大切だと考え、なんでも食べました。それらは、文化によっては、日常の食材ですし、それらを「ゲテモノ」などと感ずること自体が、とても失礼なことだと考えていたからです。自分の文化的背景だけに立脚して、それ以外の文化を否定するかのような姿勢だと考え、そうした姿勢をとるまい、と強く意識して行動していました。

だからこそ、内臓はもちろん、脳も食べましたし、もちろん虫も食べました。しかし、昨今の昆虫食への社会の視線は、そうしたチャレンジングな体験ではなく、もっと日常に寄り添った形での、生活への溶け込み方を模索したものだと思います。

ある虫などは、飼料として活用されることで、我々の日常的な食糧を影で支える存在としての位置付けを模索するものもあります。

エンターテインメントとしての体験

今回は、虫が食べ物であることを意図的に、意識させてくれる体験でした。それは、かつての「ゲテモノ」的な扱いではなく、より洗練された形で提供されるものだったこともあって、確かに美味しくいただけるものでした。しかし、です。僕は、幼虫が生理的に苦手で、なんというか、悲鳴をあげちゃうくらい苦手なのです。

昨年の夏、庭木に毛虫が大量発生しました。それを切っているときに、肩と背中にポタポタと落ちてきたときの衝撃は、嫌悪というか、生理的に受け入れられない感じで、我を忘れるほどでした。思い出しただけでもぞわぞわします。

そんな僕でも、素晴らしい料理であることは理解でき、味も確かに驚くほど美味しく、プチプチとした食感だったり、微かな酸味だったり、濃厚な甘味だったり、香ばしさだったり、と食材としての魅力も十分に理解できました。

この、頭を使って理解しておいしさを楽しみつつ、口中から喉を通って腹の中に収まったものに対する根源的な感覚の乖離に、とても打ちのめされる体験でした。だからこそ、必要な体験なのだとも思いました。

虫オッケー、大好き、という人は、この体験を経なくとも、日常食として取り入れることができるのだと思います。かつての僕には、必要のない体験だったかもしれません。しかし、今の僕にとって、虫が苦手で、できれば食べなくて済むなら食べなくてもいいかな、と考えている僕にとっては、とても意義のある体験だったように思えます。ある意味で、ジェットコースターのような体験を必要とするのは、昆虫食に対して、無意識的に距離を置いている人なのだと思いました。

未来の体験とエンタメ性

意識を向けることは、とても力が必要で、負荷のかかることです。これは昆虫食に限らず、さまざまな新しい物事でも同じだと思います。未来を覗き見る体験は、ストレスがかかるものなのかもしれません。その初めての体験を提供する際には、こうした強い刺激をポジティブなオブラートでつつむエンターテインメントとしての工夫が必要なのかもしれません。

医療VRのHoloeyesでも、カンブリアナイトでも、その他のさまざまな未来を語り合う場でも、そこは共通するものなんじゃないかと思い至りました。

とても貴重な体験をしました。

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