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「行動する」とはどういうことか? 〜加速度と摩擦と私

お疲れさまです。uni'que若宮でございます。

新型コロナウイルスの懸念が広がり、たくさんのイベントが中止になったり、突然の休校要請が出たかと思えば、27℃の水を薦められたり、紙の買い占め、そしてそのデマを流した人の吊し上げなどだいぶ混乱も出ていますね。

そんな中改めて「行動する」ということについて考えたことがあり、「アートシンキング」にもちょっと通じることなので書いてみたいと思います。

「行動」と加速度

起業して事業をつくったり企業や自治体などと色々とやってみていると、やはり「面白い大人」というのは行動する人だなあとたびたび実感します。頭がいいとかセンスがいいとかもあるけど、基本的に行動力がずば抜けている。しかし、じゃあ普通の人って怠けているのかというとそんなことはなくて、みんな終電まで一生懸命働いています。

僕は「行動」というのは「とにかくやる」というのとは違うと思っています。たとえば過去の慣例にしたがって思考停止で何かをし続けることは「行動」的ではないと思うのです。なぜならそれには力が要らないからです。

ここでちょっと中学の物理の授業を思い出してみましょう。

一番左は、「止まっている状態」。速度vが0で、加速度も0。動きも行動もない状態です。

左から2番めは速度vで動き続けている状態。「等速直線運動」と言うやつで、これは実は物理的にはさきほどの静止と同じ状態です。一見すると動いているけれども加速度は0なので止まってるのと一緒なのですね。運動方程式によると、力Fは加速度aに比例しますから、加速度が0だと力も0、つまり何もしていない状態です。

右の2つは加速度aがある状態。加速しているか、減速しているか、です。前述の通り、加速度があるということは力Fがあるということですから、加速も減速も力が要ります

行動していない、というと家でごろごろしているみたいですが、注意しないと混同してしまいがちなのが、既定路線をただ続けている状態もまた行動していない静止である、ということ。

今回「イベント中止」や「休校要請」があった時にも、「いやイベントとか学校とか中止したって満員電車あったら意味ないだろ」とか批判しながらも、自分は変わらず定時出社をしている、という人が結構いたりします。

え、じゃあ会社いかなきゃよくないです?というと「そうはいかないですよ笑 重要な会議があるから…」とかお返事いただくのですが、それ本当に出社しないとできないことでしょうか?定時出社というのはまさに等速直線運動のようなもので、繰り返しているだけで力は0です。そして等速直線運動には別の名があります。「惰性」です

同じように誤解されがちなのが、一番右の、減速している状態。進次郎さんの育休とかのときもそうでしたが、何かをやめたり休んだりすることが怠けているように思われ、一見「行動」とは真逆にみえる。進次郎さんに対して「議員として高い給料もらってるんだから仕事しろ!」というような批判がありましたが、惰性で出社しているのを見直してむしろやめる方にこそ加速度があるし、力が必要なのです。そして「仕事=力✕距離」なので、力が0な人よりはそれってよっぽど仕事してるんですけどね。

「行動」と摩擦

上でみたように、単体の「行動」としては一見動いていても行動していなかったり、一見止まってるようにみえるけども実は行動している、というケースがあります。

しかし人間はひとりで行動しているわけではありません。周りの人達との関係においてあります。そこで周囲との関係にこれを拡張してみましょう。

たとえば周りが一様に流れている川の中で同じ速度で流れている状態は、相対的には加速度a=0であり、物理的には静止と一緒です。一方で左から2番めのように、周りが流れているのに止まったままでいるには周囲に抗う力が必要なので、むしろ「行動」しているのです。

さらに、周りの流れとはちがう方向に動いたり、あらがったりする場合も力が必要です。(右から2番目)

あるいは逆に、一番右のケースのように、周りが全く動いていない時はどうでしょう。周りが静止している時、自分だけが動いていくのは力が要ります。

このように、周りの動きとの相対的な関係によって自分の動きとその力は変わってきます。そして周りが動いている時に止まったり、ちがう行動をしようとしたり、あるいは逆に周りが止まっている時に動き出そうとすると、そこには抵抗や摩擦が生じるので、それをぶち抜くために力が必要となるなのです。

加速度と摩擦と私

今までとちがう動きをしたり、周りとはちがう動きをしようとすると力が必要ですが、これはまた、その人らしさが生まれるチャンスでもあります。

周りが流れているとき、ほとんどの人はそれに流されてしまいます。なにか抵抗があった時、ほとんどの人はそこで諦めてしまいます。ですから、加速度なく、摩擦に勝てず諦めたり流されたりすると、人は誰かと「おなじ」ものになってしまいます

ところがときどき、他の人がほとんど諦めてしまうところで踏みとどまらず、突き抜けてしまう人がいます。そしてこういう風に新しい加速度をもった動きができた時に人ははじめて、他人とは「ちがう」、代替不可能な「自分」に出会うことができるのです。

自著『ハウ・トゥ・アート・シンキング』の13章「アートは「自分」をアップデー トする? 〜「制約」が常識を超えた新しい視点を生む」から引用します。

思いどおりにいかないからこそ、「新たな視点」を獲得できる。これがアートの価値革新の仕組みです。抵抗を前に、諦めるのか、突破するのか、迂回するのか、様々な視点から「自分」を見直すことになるのです。
制約や抵抗を感じたとき、そこから生まれる工夫が「自分」をアップデートさせてくれます。

摩擦や抵抗は制約というのは、面倒ですし、無ければ無いほうがいいように思えます。実際世の中のアイディアの多くは省力化のためであり、摩擦や抵抗をなくすために、多くの便利な仕組みが発明されてきました。しかしあまりに力が要らなくなると、それはとても同質で代替可能なものになっていってしまい、実は摩擦や抵抗があるからこそ、他とはちがう「自分」がようやくわかってくるのです。

そうおもうと摩擦や抵抗は、新たな「自分」に出会うためのきっかけであり、養分です。

「面白くなってきたぜ族」と呼んでいるのですが、「面白い大人」を観察しているとトラブルになるほど「面白くなってきたぜ…」と楽しんでいる感じがあります。そしてトラブルを乗り越える時に、他の人とはちがうクリエイティブな工夫を編みだすのです。こうして摩擦や抵抗によって生まれるユニークな「工夫」がそのひとをもっともっと「いびつ」で面白い人にしていきます。

「行動」はユニークさにつながる。

ハンナ・アーレントという哲学者が『人間の条件』という本でこんなことを書いています。(※訳文中では「活動」と訳されているのですが、ドイツ語でhandeln・英語ではactなので、この記事でいう「行動」と読み替えていただけたらと思います)

人間が活動する能力を持つという事実は、本来は予想できないことも、人間には期待できるということ、つまり、人間は、ほとんど不可能な事柄をなしうるということを意味する。それができるのは、やはり、人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれるためである。

アートシンキングは「自分起点」のユニークな価値を大事にしますが、ユニークというのは、必ずしも「⾵変わり」とか「新規性」ではありません。uni+queとは「⼀つっぽい」、つまり他とはちがう「⾃分らしさ」が出ていることです。
よく聞かれるのですが、「他とはちがう」と言っても競合分析がどうのこうのとかいうように、ちがいを無理してつくるものではありません。⼈はそもそも全員「ちがう」のです。

コロナウイルスの不安によって社会に抵抗や摩擦が生まれつつあります。しかしだからこそ、「今まで通り」や「当たり前」を見直し、周りに流されずに「自分」らしいあり方を見出していくべきタイミングではないでしょうか。これは、日本社会が、そして私たち一人ひとりが「ユニークになるためのチャンス」でもあるのです。

知恵と工夫で乗り切りましょう。面白くなってきたぜ。

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